行事メモ


 まもなく7月です。

 今年は梅雨入りが宣言されたあと、なかなか雨が降らず、最終的には気象庁の宣言も修正されるともいいます。
 最近は7月に入ってから梅雨らしさを見せることも多いようですので、さあ今年はいかがなものでしょう。
 
 昨年も使った7月の歳時記ページを、再びご覧下さい。

 7月の祭りや行事について、次のページをご覧ください。



祇園祭り


 この時期のもっとも知られている祭りに、祇園祭りがあります。
 多くの人々が農業に従事していたころには、祭りというと作物の豊作を願って行われるものが多かったものです。
 4月ころには春祭りが、また、秋には収穫を祝い秋祭りが行われたわけです。1年の行事のほとんどは、こうした農業に関わったものだったわけです。

 そのいっぽうで、マチに住む人々には、そうした作物とは関係のない祭りが行われていました。
 総じて「夏祭り」などといわれるもので、その多くは7月下旬を中心に行われた祇園祭りでした。

 祇園祭りには、山車や神輿といったものが、町を練り歩くのが一般的です。
 祇園祭りという名称はなくとも、こうして山車や神輿が練り歩く祭りは、この時期に大変多く行われます。
 松本市内を二分する深志神社と岡の宮神社には、ともに舞台を引き回す祭りが伝承されています。岡の宮神社の祭りは、かつて5月22、23日であったといわれ、夏祭りという印象はありませんが、深志神社の祭日は、昔より7月24、25日におこなわれてきました。別に「天神祭り」といわれるように、天神様の祭りとして、松本市周辺の村の人々にも親しまれてきた祭りです。『松本市史・民俗編』編纂のなかでも、周辺のムラの人々にうかがったなかで、多くの人々が、こうしたマチの祭りを楽しみにしていたことを聞くことができました。

阿南町深見の祇園
(深見池に浮かんだ筏と、水中花火)

 こうした祭りは、京都の祇園祭りの影響を受けたものといわれ、全国的にそうした同様の祭りが展開されています。松本の場合も、飛騨高山から影響をうけたといわれ、直接京都ではないものの、京都から次第に地域の小都市にひろがっていった様子がうかがえます。

 このようにマチで行われる祇園祭りを中心にした夏祭りは、その華やかさから、背景の信仰的な部分は、あまり表に出てきませんでした。祇園祭りは、厄神である牛頭天王(こずてんのう)を祀ることによって、疫病を防ごうとしたものでした。現在とことなり、一度疫病が発生すればまたたく間に流行した時代には、流行り病に対する考え方は今では想像できないほどのものでした。

 夏の暑い時期に、そうした流行病が発生しそうなことは、現在でも予想できると思います。そうしたなか、医療の充実していなかった時代には、信仰に頼る場面は大変多かったわけです。

 祇園祭りには、京都八坂神社系のものとは別に、愛知の津島神社系のものがあります。
 下伊那郡阿南町深見の祇園祭りでは、津島さまの神輿を筏に乗せて池を一周したのち、大ぬさ(榊と弊束)を水に流す所作が行われています。これは、愛知津島神社で行われている祇園祭りと同様のものです。池に大ぬさを流すことによって悪い病を払ってしまう意味があるわけです。天保7年(1836)6月に、流行病が起きたため、愛知津島神社より祭神を迎えたのが始まりともいいます。流行り病を防ぐために始まった、という言い伝えは、各所の祇園祭りによく聞かれます。

 このように地方の都市だけではなく、ムラでも祇園祭りが行われるようになった背景には、流行り病に対する信仰があったようです。

 いっぽう、近年行政単位で新しく始まった夏祭りが、地方でもたくさん行われるようになりました。
ムラから農業中心の生活が消えていったかわりに、サラリーマン化したムラには、春や秋の祭り以上に、マチを中心に繰り広げられる祭りが、魅力的になってきたのでしょう。
 いかにも華やかで、イベント化しているマチの祭りが好まれるいっぽうで、伝統色の強い春や秋の祭りはすたれてきています。


マチの祭り


 わたしもそうですが、ムラに育ったものにとって、祭りというと自ら獅子舞や芝居を演じるというのが一般的であり、それはマチも同様だと思いがちです。ところが、実際はマチの様子は違うようです。

 飯田市内で7年目ごとに行なわれる『お練り』祭りでは、かつては市内の山車が出て、それこそ前に述べたようにマチの祭りのきらびやかさがあったといわれています。しだいにそうした祭りから芸能を表に出した祭りに変化し、「飯田の大火」といわれた火災によって、そうした山車も焼失し、かつての祭りの面影はなくなりました。
現在では、周辺各村から参加する出し物によって、祭りは構成されています。市内の氏子といわれる範囲から出される芸能はわずかです。そうした芸能も、自ら行なうものもあれば、お金を出してよそから呼ぶものもあります。自ら行なわれている芸能では、祭りの代表的なものとして知られる「東野の大獅子」と「大名行列」ぐらいです。

 このうち大名行列は本町三丁目の人々によって伝承されてきたのですが、最近は人口のドーナツ化によって、住む人がいなくなり、自分たちだけでは伝承できないところまできています。この大名行列を演じる中心は、奴といわれる人々で、この奴が「草履とり」や「おはこ」といわれる芸をします。
こうした奴を演じる役は、かつては大店の主人のような人はしなかったともいいます。奴の姿を嫌ったともいいます。

 このようにマチの人々すべてがかかわったのではなかったわけです。
同じようなことはマチの祭りに多いようです。

 松本市内で7月24・25日に行なわれる「天神祭り」は、宮村町にある深志神社のまつりです。町の中心を南北二分するように流れる女鳥羽川(めとばがわ)の南側を氏子区域としており、商いの町を中心に展開されています。この祭りは、かつては「びょうぶ祭り」といわれていました。現在でもそう呼ぶ人がいます。戦前の祭りでは、商店が仕事を休み、店のものを奥にしまうと畳にじゅうたんを敷いて、びょうぶをたてて盆栽などを飾ったりしていました。どこの家でも自慢のびょうぶをたてたため、びょうぶを見物に訪れる人が多くなり、「びょうぶ祭り」といわれるようになったといいます。

 このようにマチの祭りでは、祭り日に仕事を休んで祭りを楽しむという姿がありました。もちろんムラでも祭りの日は、1年に数少なかった休日だったわけですが、ムラでは祭りに演じられる芸能はみずから行なっていました。ところがこの天神祭りで引き回される舞台は、商店を休んだ店主が引き回すのではなく、人足を頼んでいました。
また、舞台にはお囃子がつくわけですが、大人たちが仕事を休んで祭りを楽しむなか、こどもたちは舞台に乗ってお囃子をするのが楽しみだったといいます。ところが、このお囃子に欠かせない笛は、マチの東方に位置する里山辺というところから笛吹きを頼んでいました。マチの大人が吹くのではなく、ムラの人々に頼っていたわけです。里山辺では引き手として天神祭りに行ったという伝承や記録もあり、天神祭りと里山辺の人たちは、氏子ではないのですが、ずいぶんかかわりがあったわけです。

 天神祭りでは、舞台の維持費や、人足に出す手間賃、笛吹きのお礼などお金がかかるため、舞台をムラへ売ってしまったところもありました。そして維持費のかからない小さな舞台に変えたところがあります。女鳥羽川の北側を氏子範囲とする岡宮神社でも同じように舞台があったのですが、こちらではもっと早い時代に維持困難になって舞台を売ってしまった町がいくつもあります。天神祭りでは、現在でも16町から舞台が出されていますが、かつてのように引き回しに多くの人足を頼むことはなくなりました。また、笛吹きの姿もなくなり、テープレコーダーから流れる、かつての里山辺の笛吹きの笛が流れています。もっとも早くにテープーレコーダー化したのが博労町のお囃子で、昭和39年からだといいます。その後すべての町のお囃子がテープレコーダーに頼るようになりましたが、最近、再び若い笛吹きが里山辺からやってきて本町の舞台に乗るようになりました。

 祭り様子も大きく変わりました。
 休んで楽しむ祭りという雰囲気はなくなりました。
 都市化にともない、かつては舞台が各町会を回ったものですが、現在は自分の町へ舞台を引いていく程度です。なかには、祭りの日に舞台倉(舞台倉はお宮の境内にある)から出すだけで、町へ引いて行かない町もあるといいます。

 マチで繰り広げられる華やかな祭りも、それを担う人々が必ずしもマチの人々ではなく、周辺のムラの人々であったわけで、とくにそこに育まれた民俗芸能に、マチの大店の人々がかかわるということは、松本の事例からは見られませんでした。


七夕

 七夕というと、わたしの子どものころ(昭和40年代)は、1ヶ月遅れの8月7日でした。

里芋の葉にたまった露をとって墨をする

 『長野県史民俗編 第2巻(2)南信地方 仕事行事』によると、南信のほぼ全域で8月7日に行われるとされています。とはいえ、七夕というと竹の葉に願い事などを書いた短冊をつるすことを思い浮かべますが、こうしたことも古くからあるわけではなく、比較的最近に始まったものといいます。同書の「七夕の行事」という民俗地図を見ても、伊那谷に多い行事として、「洗い物をする」という分布が多く、そのほかに「河原で飲食をする」「水浴びをする」「水浴びをしない」といった伝承があります。
 例えば下伊那郡阿南町新野では、

田植えのときえびす・大黒に供えた苗をさげてたわしのかわりにし、斗ますや一升ますを洗う。このとき洗って、ほかの日には洗うものではないという。また、女たちは日の出前に髪を洗うとよく落ちるといって髪を洗った。このほか第二次世界大戦前まではネブケナガシといって川で顔を洗った。遅く行くとネブケ(眠気)を拾うから早く行くほうがよいといわれていた。この日、子どもは川で水浴びをしてはいけないといわれ、水浴びをするとカーランベ(かっぱ)に川へ引っ込まれるといわれた。

といいます。
 河原で飯を炊いて食べる風習は、飯田から南西の浪合村や平谷村などに伝承があり、現在でも行われているようです。ただし、それは七夕という時期に限定されたものではなく、盆であったり三月節句の行事あったりします。
このように、七夕行事=竹に短冊をつるす、という行事ばかりではないことがわかります。

 さて、現在でも8月7日が七夕という認識があるわたしですが、学校の子どもたちは違います。
行事が共通化し、その時期も一定の日に定まってきているなか、七夕も7月7日に共通化してきたといえるでしょう。

 七夕の短冊は、里芋の葉にたまった朝露をとって墨をすり、それで書くといわれています。そうすることで、字が上達するなどといわれています。なぜ里芋の露なのかよくはわかりませんが、里芋の露以外にも稲の露を使ったりするといいます。七夕のころ、里芋の葉がちょうど大きくなるということもあるからでしょうか。子どもたちは、この里芋の葉を顔にたとえて、目や口の位置に穴をあけ、茎を二つにさいて紐にして、頭のうしろで結び、お面をつくるということもあるようです(『子供の四季 いま・むかし』天竜市教育委員会)。

 七夕飾りは、8日の朝早くに川へ流したものですが、盆だな飾り物もそうですが、河川が汚れるということで最近は流すということはなくなりました。

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