5月の農作業メモ

長野県下伊那郡喬木村のある農家のメモになります。『暮らしの情報』の「旬の食べものを食べませんか」と一緒にご覧ください。

○ 3月に植えたレタスが出来上がり、収穫です。レタスの大生産地でもある塩尻市洗馬から朝日村あたりでも、出荷が始まっています。レタスは油虫が出ます。自家用では油虫ぐらいいても洗えばなんでもありませんが、出荷用となるとそうはいきません。箱詰め段階に油虫が見えたりすると、時には箱に向かって殺虫剤をかけることもあります。

○ いちごとアスパラの収穫。このいちごでジャムづくりもします。

○ 山菜の豊富な時期でもあります。今年は4月下旬に暑かったため、いっせいに出てしまい、長い期間楽しめませんでした。山うど・タラの芽・ノノヒル・にら・せりといったもので、近くの田んぼの土手で採ります。

○ 椎茸の駒打ちをします。原木は裏山で伐採したどんぐり(しい)の木です。

○ えんどうの支柱を立てます。播種は3月、定植は4月上旬で、獲れるのは5月下旬になります。支柱には近くの竹薮からとってきた真竹を使用します。

○ そのほか定植するものとして、きゅうり・なす・トマト・かぼちゃ・すいか・メロン・里芋・キャベツ・グリーンボール・白菜・ブロッコリー・カリフラワー・モロヘイヤなどです。5月は定植のピークともいえます。元肥を入れて畑を耕し、定植後にはマルチをかけます。マルチのメリットは、地温をあげることによる発育の向上と、雑草の生えるのを防ぐことです。
マルチをした後には、敷きわらをして乾燥を防ぎ、追肥をします。その後さらに支柱立て・ネット張り・わき芽かきと続きます。
きゅうりは摘果(てっか)もあります。

○ トウモロコシとささげの種まき。

○ 夏大根とにんじんの間引きをします。間引いたにんじんの葉は人と鶏が食べます。

○ 山から採ってきたゼンマイを湯でて天日で干し、乾燥保存します。保存の目的はお祭りや、人よりの際のご馳走(?)になります。

○ 竹の子は下味をつけて冷凍保存します。これも祭りごとのためにとっておきます。

○ こうした野菜・山菜のほか、やはり水稲もこの季節は作業のピークです。
用水を流す井ざらいから、土手の草刈り・肥料まき・畦塗り・代かき・田植え・植え直し・草取り・水管理と続きます。
かつての水田では、必ず畦塗りをしたものですが、畦畔ブロックの登場でそうしたもので代用するようになりました。最近はビニールシートをはったりします。とくにほ場整備などが行なわれた水田では、畦畔がかつてに比べると頑丈にできており、こうした水田で畦塗りをした姿を見るのは珍しいくらいです。

○ 季節には関係ないかも知れませんが、鶏の雛がやってきます。

○ また、趣味の世界ですが、夏用花壇の種まきも5月です。マリンゴールド・サルビア・アサガオ・ヒマワリ・アゲラタム・ナスタチウム・マツバボタンといったもので、サフィニアのように刺し芽をするものもあります。

行事メモ

5月になりました。五節句のひとつ端午の節句があるわけですが、この際に鯉のぼりとともにあげられる幟ばたに、鐘馗(しょうき)の姿が描かれていることがあります。また、鐘馗の掛け軸を飾ることもあります。
今回はこの鐘馗について、少し触れてみることにします。
初節句の祝い
掛け軸は鐘馗
(長野県上伊那郡飯島町)

1.鐘馗とは何か

鐘馗は『宿なし百神』(註1)によると、

鐘馗は日本固有の神ではない。唐の玄宗皇帝が今でいうマラリヤにかかって死の苦しみをしたとき、夢の中に大小二匹の鬼が現われ、小鬼が楊貴妃の香袋と皇帝の大切にしている玉笛を盗んで逃げた。これを大鬼が捕えて喰い殺し、香袋と玉笛を皇帝にお返しした、皇帝はよろこんで大鬼に名を問うと「私は鐘植といい、もとは武芸者であった」と応えた。
夢からさめた皇帝は不思議にも熱がさがり、やがて全快した皇帝はこれを徳として画工に命じ、その鐘馗像を描かせたという伝説がある。それから鐘馗像を掲げて邪悪を払う風習が始まったという。
わが国では室町時代から鐘馗に対する信仰がおこなわれた。姿は普通は緑色の抱を着て冠をかむり、刀をぬいて威嚇の形相である。疱瘡よけのまじないに赤色を用いるのにちなみ、朱で描いて疱瘡よけにしたり殺される小鬼が虚耗という貧乏神だというので、貧乏よけのまじないにもされる。
と述べられています。このように疱瘡よけのために用いられる神であるといわれますが、実際に疱瘡よけとして用いられる事例を身近に聞きません。伊那市山寺では5月5日の男の節句に鯉のぼりを庭に立て、床の間には鐘馗の掛け軸などを飾ったようです(註2)。5月の節句に鐘馗が飾られるという話はよく聞く話でして、幟に描かれることもあります。疱瘡が人々に恐れられていた時代には、疱瘡送りと呼ばれる神送りが全国的に見られたことから、男の子の成長を祝う時に疱瘡よけとして鐘馗が飾られたということでしょうか。

2.鐘馗の石神

小土山の線彫り鐘馗像
『日本石仏図典』(註3)によると、東京都葛飾区東金町葛西神社や横浜市磯子区杉田東漸寺のものが紹介されており、そのほか長野県や新潟県に存在の報告があるとされています。像としては非常に珍しい鐘馗像を、長野県北部、新潟県境にある北安曇郡小谷村に2体見ることができました。いずれも今は無住の地となってしまった南小谷の小土山(こづちやま)にあり、どちらも線彫像です。小土山はJR大糸線南小谷駅から西の山へ上った最も奥の集落です。30年ほど前に地滑りで道路が不通となり、部落離散してしまったといいます。その際に石仏を1個所に合祀したといい、それは写真のようなもので、村の入口に他の石神仏と並んで立っています。安山岩に彫られており、碑高77cm、碑幅60cmのもので、紀年銘などはありません。もう1基は、堂跡に立っており、やはり安山岩に彫られた無銘のもので、碑高222cm、碑幅170cmです。邪神や悪疫が部落に入ってこないようにとの願いから建てられたといいます(詮4)。
上伊那郡高遠町御堂垣外には「鐘馗大臣」銘の石碑があります。御堂垣外の諏訪神社前の石碑群の中にある1基で、その銘文は次のようなものでした。
正面「疫神齊 鐘馗大臣」
右面「百人□」
左面「一天二六」
裏面「文政六癸未年 二月 名和宗梧」
台座
正面「堪忍」
右面「塞月」
左面「善悪」
裏面「一心」

3.鐘馗の祭り

@東蒲原郡の鐘馗祭り
鐘馗祭りとしてよく知られているものに、新潟県東蒲原郡のものがあります。3月8日あたりにショウキサマを作ります。ワラを各家から、あるいは近郷から持ち寄り、願主の名と病む部分を記入した紙を付けて、これを人形を組み立てるときにおのおの相当するところに組み込んでもらいます。ショウキサマは槍、大小刀、甲冑(かっちゆう)をもって武装し、大きな陽物を付けます。公民館で作られたショウキサマを担いで集落はずれの老木によらせ、1年聞ここに安置されます。前年のものは新しいショウキサマが運びこまれる前にかたづけてしまいます。これを隠居させるといっている所もあるようです。以上が祭りの概要です(註5)が、この地方の祭りを要約したものが次表です(註6)。
現在祀る所
人形を作る日
祭りの日
概 要
鹿瀬町 夏渡戸 正月11日から13日位の間で、都合のよい日藁人形を作り、部落東西入口の杉の木にしばる 旧2月8日におまいりする ここでは男女二体の藁人形を作り、男には男根をつける。高さ1m50cm位である(立像)。9戸の部落が順番に当屋になる
鹿瀬町 平瀬 2月2日藁人形を作り、これを伊豆神社わきのお堂におさめる 3月8日おまいりする 各戸から藁を持ち寄り、使用する藁八百把という。高さ約2m50cmで男一体であり、巨大な男根をつける(立像)。経をあげて魂をいれる
津川町 大牧 3月2日当屋に集まりつくり、その日これを鐘馗神社におさめる 3月8日おまいりする 部落の旧家四軒が毎年順に当屋になり、そこで作る。高さ2 m(座像)。男根−長さ80cm、周り60cm位
三川村 熊破り 3月8日当屋で藁人形1体を作り、その日神社裏の名木にしばりつけ、お祭りをする 3月8日作る日と 祭りと同じ 昔は当屋で作ったが現在は青年会堂で作る。高さ2m50cm(立像)。男根をつける
上川村 武須沢入 旧2月2日、現3月2日昭和四43年より廃止 3月8日おまいりする 当番の家に集まり一体の藁人形を作り、出来ると念仏を唱え百万遍の大数珠で男女に分かれ綱を引きあい、その後峠の上の老木にしばった
鹿瀬町 仙石 3月2日、男女二体つくり、部落の入口の木の上に二体を飾った。上手・男像、下手・女像 3月8日おまつり 昭和45年離村(4戸)。高さ1m30cm位のもので、この日、百万遍の念仏をしたという

この鐘馗祭りについて考索してみると、問題点がいくつかあるようです。まずワラ人形の数で、夏瀬戸では男女二体のワラ人形を作っており、かつては仙石や大牧もそうだったといいます。鐘馗様は男の神だというのに、なぜ女の神様が併造されるのでしょう。また陽物が付けられる意味は何でしょうか。これらを解くカギとしての鐘馗信仰を次にあげます(註7)。
○大牧では鐘馗さまを運ぶのは厄年の人が背中合わせに負って祭場に運ぶことになっていた。近年は厄年の人が少なかったりして必ずしもそうしない。死人を負う時以外は、この背中合わせ負いはしないことになっている事より霊の存在を考えていると見られる。
○大牧では女の人の頭の病気祈願の神様だと言って、毛髪を供えている。
○大牧の道で老婦人の語るところによると、子供のない婦人は、夜こっそり鐘馗さんの男根をなでて帰ると子供が授かるといわれている。
○大牧では3月8日を大祭りとして、他の月の8日をおまつり日としている。
○大牧でも平瀬でも、入口に鐘馗さんのお札を家々で貼っている。災難よけという。病気になると、鐘馗さんの絵姿のその部分を切り取って飲むとなおると言われている。
○鐘馗さんのお札をお祭りの日に出す所は、熊渡では神職の家から、大枚では当前から、平瀬では青年会から出される。平瀬は以前、福島県宝川の磐若寺(修験の寺)から出したと言う。
○夏渡戸では、大東亜戦争に19人出征したが、鐘馗さまに願をかけて戦争に行ったので1人の戦死者もなかった。武運長久の神であると言っていた。
以上ようです。後述する4.信仰の中でこれらについて考察を述べたいと思います。
A獅子舞に登場する鐘馗
梅戸神社獅子舞の鐘馗
(S.61.9.19)
長野県上伊那郡における獅子舞に鐘馗が登場するものがあります。特徴のあるものとしては、伊那市羽広で1月15日に行われる獅子舞があります。その舞の所作は次のようなものです。
平和な野原で、二、三人の人が茸なぞ取って楽しそうに語らっておると、突然大きな獅子が出て襲いかかる。驚いて逃げかくれながら助けを呼ぶ。ちょうど通りあわせた鐘馗大臣が傘を片手に、獅子をすき見しながら現われ、傘をパッと投げ出し、六尺の棒をついて、キッと獅子を睨み、(鐘馗大臣の服装は赤い着物、服のようなものをつけ、鉢巻の下に白い紙を御札型にして挟み、赤い剣を吊し草鞋履き)「龍顕すれば雲起り、虎嘯(うそぷ)けば風生ず、千里に蔓延(はびこ)るこの獅子を、生捕って我国に献上せん」と大声でいい、ヤッと棒を強く下につき、獅子に向う。獅子は高く頭を上げグッと睨み、ひらりひらりとかわし、巧みに飛びかかって棒ではどうにもならぬので、大剣を抜いて切りつけるが、獅子はなお猛り狂って、ますます危険になる。そこで方針を変えてだましににかかる。鈴と御幣を持って、身体を沈めてヂャラヂャラと鳴らすと、獅子は不思議そうに耳を傾ける。そこで静かに立って鈴を振りながら、右に行くと獅子は左に、左に行くと右に、すきをみせないので、片足をあげてかるく音楽に合わせて踊り出すと、獅子もそれにのって踊り出す。すきをみて首のところを押えて生捕 りにする。茸取りに出た二、三人の人をチャリといっている。(註8)
「鐘馗大臣の舞」といった舞としての形をもったものではありませんが、練りの中に鐘馗の登場するものもあります。駒ヶ根市大御食神社の獅子練りは、行列に参列する役者のバラエティさと豊富さで見事なものとして知られています。この行列の中の先頭に近い所に鐘馗が参列しているのです。天狗の先導のもと、おかめひょっとこが付き、その後ろあたりに動作はあまりありませんが鐘馗の姿があります。髪はぼさぼさで黒毛、あごからほほまで黒々としたひげを付け唐草模様の抱を着て、手にはを笏を持ち、左腰には紐の長い赤ザヤの剣をさげ、白足袋に下駄をはいています。同じ駒ヶ根市五十鈴神社の練りに登場する鐘馗もほぼ同様です。

上伊那郡飯島町梅戸神社の獅子練りにも同様の鐘馗が登場します。鐘馗は先頭の天狗の所作に合わせて足を上げるのみの簡単な動きです。神社に着くと拝殿から一人出てきて、獅子の暴れるのを押えつけて獅子頭を首から取ってしまいます。伊那市羽広の鐘馗大臣の舞でも最後に鐘馗が獅子の首を取ってしまいますが、所作そのものは同様のものと思われ、拝殿から登場する一人はかつては鐘馗であったようにも思えます。いずれにしても梅戸神社の獅子練りは、天狗の所作から舞楽系の古いものとして知られている、下伊那郡高森町大島山瑠璃寺の宇天王の流れを持っており、また、最後の拝殿前での獅子頭取りは、羽広の鐘馗大臣の舞の流れを持っているといえます。大島山瑠璃寺の獅子舞の系統は、かなりその伝播の流れが研究されています(註9)が、その伝播の北限の飯島町あたりから上伊那郡にける獅子練りについては、あまり詳細に調査されておらず、鐘馗のかかわりとともにこれからの課題もいえるでしょう。

ところでこの梅戸神社の鐘馗は、獅子舞がこの写真を撮った際の昭和61年より中断しており、現在は見ることができません。

4.信仰

@鐘馗祭りにみる道祖神信仰との共通性
先にも信仰の事例を載せました。問題点としてあげた男女二体のワラ人形ですが、横山旭三郎氏が指摘している(註10)ように、道祖神としての神格との共通性にあるといえそうです。東蒲原郡は江戸時代は会津領であり、明治19年に新潟県に編入されるまでは福島県でした。このことから鐘馗祭りも会津より入ったものではないか、と横山旭三郎氏は述べており、東蒲原地方の道祖神信仰と並列して考えないと鐘馗祭りは述べられないかもしれません。

横山旭三郎著『新潟県の道祖神をたずねて』」(註11)では、東蒲原郡の一帯を新潟県の道祖神分布割から「きんかさま」地帯として色分けをしています。「きんかさま」とは道祖神の呼称であり、きんかとは耳の遠い人をいう方言です。その耳の病であるみみだれを治してくれる神として信仰する地帯といいます。なぜさいの神をきんかさまというかについて、横山旭三郎氏は明確な答はないといっています。同書の中で、先に述べた鐘馗さまの存在が認められる地域には、このきんかさまの石神がないことに気がつきます。そう考えると、鐘馗さまの信仰が道祖神としての神格を有したために、道祖神が必要なかったともいえそうです。すぐ隣には栃尾市などの道祖神双体像(ただしここでは「さいの神」という)の密集地帝があるにもかかわらず、鐘馗さま信仰が盛んになった理由は何だったのでしょう。

秋田県平鹿郡大森町東野では、かつて2月8日にワラ人形を作ったといい、それを鐘馗さんといったようです。福島県西会津町宝坂でも、男女二体のワラ人形を鐘馗さんといって作った(註12)といいます。このように東北地方にみられるワラ人形に、鐘馗の呼称が伝承されており、東蒲原郡の場合も、その流れといえそうです。またその伝播の関与に修験道者が関係していたのではないかと、横山旭三郎氏は述べています。東蒲原郡津川町の神明様の入口では、姥様が悪疫の侵入を防いでいる(註13)といいます。姥神がさいの神として存在している事例であり、この地方には鐘馗とともに特異な道祖神信仰があるようです。

ところで部落に悪疫を入れないという理由で石神としての鐘馗が建立されているといいます。これもまた防ぎの神としての道祖神と共通しています。小谷村小土山に鐘馗像が建立されたいきさつを調べてないのでわかりませんが、なぜ鐘馗でなくてはならなかったのでしょう。鐘馗を石神として建立する所がまれだけに、他地域での事例も注目したいものです。
A事八日とのかかわり
鐘馗祭りもかつては事八日のころが祭日でした。魔除け防ぎの代表的期日でもある事八日に祭りが行なわれたということは、鐘馗祭りも道祖神に限らずさまぎまな信仰との結び付きが考えられます。北島寿子氏は「コト八日」(註14)の中で、コト八日行事と鐘馗祭りを考察しています。それによると、鐘馗祭りを二月八日に行なう所では、目篭(註15)をかけないが、そうでないところでは、コト八日には厄病神や鬼が来るといって目篭をかけている、と述べています。この目篭の習俗は関東一円に分布していますが、目篭を出さない所では鐘馗祭りやそれに類する神送りが行なわれていると指摘しています。そして家の行事として行なわれる場合は、目篭あるいは団子などを掲示しますが、一層攘災の面が強調されると、ムラ中一体となって神送りの形になっている、と述べています。


5.初節句の様子から

以上鐘馗にかかわることを、信仰面から捉えてきました。
初節句については、『長野県史』民続編総説Tによると、長野県ではゴガツセック、オセック、タンゴノセック、ショーブノセックオトコノセックなどと呼ばれていて、月遅れの6月5日に行うところが多かったといいます。しかし、現在では5月5日に行うところが多くなっています。かつては田植えの季節と重なったりして、田植え後の農休みと節句を兼ねて行った所もあったといいます。
また、その様子について次のように書かれています(註16)。
初めての男の子が生まれると、母親の生家や親戚などが幟、こい幟、武者人形などを祝ってくれる。四月の中旬ごろまでに届け、四月二十日過ぎころから庭先にさおなどを立てて幟やこい幟を飾った。幟の絵には上杉謙信や武田信玄などの武将が描かれたり、幟の上下に婚家と生家の家紋が入れられたりしている。武者人形のほかにもよろいかぶとなどを贈るところもある。かつては人形などは飾らずに、幟だけだったという所や、武者人形も押し絵の義経などであったという所もある。人形を飾るようになったのは、昭和時代に入ってから、あるいは第二次世界大戦後であるという所もあり、年々派手になってきたという。
節句にはそれらの品々を祝ってくれた人々を招いて、かしわ餅やちまきを作り、生魚を使ってごちそうをして祝う。かつては人寄せをせずに、祝いのお返しにかしわ餅などを配ってすませた家も多い。
とあります。これによると鐘馗の幟や掛け軸のことは出てきませんが、冒頭の伊那市山寺の事例では鐘馗が飾られています。

地方によって節句の様子も違うものです。

註.
1.川口謙二著 東京美術
2.『上伊那誌 民俗篇上』上伊那誌編纂会 昭和55年 P-711
3.日本石仏協会編 国書刊行会 昭和61年
4.『小谷の石造文化財』小谷村教育委員会 昭和57年 P-301
5.『目でみる民俗神 第三巻 境と辻の神』荻原秀三郎著 東京美術 昭和63年
6.「鐘馗まつり」横山旭三郎著『まつり』25号所収 まつり同好会 昭和50年
7.6と同じ
8.2と同じ P-1035
9.下伊那郡においては、明治以降に大島山瑠璃寺系練り獅子が、かなり広範囲にわたって伝播し、急激に増えたことが古老によって伝えられています。その研究は「伊那」(伊那史学会)などに報告されています。
10.6と同じ
11.野島出版 昭和55年
12.6と同じ
13.11と同じ P-29
14.「日本民俗学」107号所収 昭和51年
15.メカゴはコト八日にやって来る妖怪変化を、目篭の目数の多さで撃退するために吊すものです。
16.長野県編 長野県史刊行会発行 平成3年4月 P-510

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