もうすぐ小正月です。
かつての農村では、この小正月の行事を大切にしてきました。
大正月を殿様の正月と呼ぶのに対して、
小正月を百姓の正月などといってきました。
豊作を祈願する行事が多く、
農業を営むものにとっては、
現在でも大切にされています。

小正月というと松焼きの行事がどこでも行われていますが、
この松焼きの行事は、
道祖神信仰とかかわっている所が長野県内では多いようです。

次の文は、わたしが『伊那路』420号(平成4年1月号)に掲載させていただいた
小正月の行事についてのものです。

写真は、山梨県牧丘町牧平の道祖神祭りでのもの。
この1年に結婚した夫婦が、オカリヤの道祖神に祈願している。


道祖神の祭りと嫁祝い・婿祝い

1.
 道狙神の祭りに嫁祝い・婿祝いが行われることがある。特に祝い棒で嫁の尻叩きをする行事は、全国的に行われていた。しかし道祖の祭りとかかわって行われていた事例を、現在も採集できる地域は、関東から中部にかけての地域であり、特に富士山を中心にした周辺地域で聞き取ることができる(1)

 長野県においても現在この習俗が行われている所があり、特に南佐久郡川上村と下水内郡栄村の2ケ所については、明らかに道祖神祭りの習俗として知られている。

 下水内郡栄村箕作(みつくり)の道陸神(どうろくじん)祭りを訪れたのは、昭和61年の1月15日未明であった。名だたる豪雪地である栄村の夜は、雪が降りしきることが多い。この日も雪が降りしきる中、子供たちの勧進が始まっていた。参加するのは15歳以下の男の子で、15歳の者が親方となる。この勧進は午前0時過ぎに始まり、1時、2時と部落内を「ドウロクジンノカンジン ヨーイ」と大声をあげてまわるもので、2時にまわる時には、このかけ声の後に「オキロ オキロ−」と付け加えており、元気なものである。ここまでの勧進は10歳から15歳ぐらいの子供が主であるが、午前4時ごろの勧進になると小さい男の子たちも加わり、手に手にハチンジョウのシデをはさんだオンベを持ち、各戸をまわるのである。家の玄関を入るとやはり「ドウロクジンノ カンジン ヨーイ」を親方の「始め」のかけ声で呼び始め、オンベで土間や床を打ちつける。しばらく打つと親方の「おわり」のかけ声で一斉に止め、外に出ると親方とマスワタシの役の者が祝儀、サンゴ(米)、切り餅をもらい次の家へまわって行く。この家まわりをする時、この1年に嫁をもらった家では、上り口で嫁の背中に布団をかぶせ、肩あるいは背中辺りをオンベでつつくのである。婿をとった家ではその連れ合いの嫁がつつかれ、婿は胴上げされる。また初孫が生まれた家ではマゴバサ(祖母)とが同じようにオンベでつつかれる。

 このように嫁が叩かれる例は、かつては尻叩きなどといって各地にあったものであるが、実際に叩かれる箕作の祭りは珍しい例といえる。南佐久郡川上村原で1月14日に行われるオカタブチでは、オンベ(弊束)を持った親方が嫁のまわり、をオッぺを振りながらまわるだけであり、実際に叩くということはしない。オカタとは嫁のことをいい、プチとは嫁の座の意味であるといい、家族の一員として嫁の座を承認し祝福する儀礼であるといわれている。

2.
 川上村と背中合わせである山梨県東山梨郡牧丘町では、オカタブチのような行事は行われていないが、小正月の道祖神祭りとして特徴のある地域として知られている。ここでは道祖神の碑の上にオカリヤ(仮屋)が藁(場所によっては杉の枝)で作られており、その正面に煙突風にとび出た男根が付けられている。特に笛吹川の支流である鼓川周辺に、この形のオカリヤが作られており、呼称はコヤあるいはオカリヤンなどといわれている。男根は付かないものの川上村でもオカリヤが作られており、また川上付から小県郡和田村あたりまで分布している道祖神の獅子舞が、牧丘町周辺などにもあり、佐久地方と山梨県との関係の深さを感じる。そんな中で牧丘町牧平(まきだいら)の祭りでは、オカリヤで覆われた道祖神の前に14日午後8時ごろ人々が集まると、この1年間に夫婦になった者がオカリヤに向いお参りをし、みかんや酒が奉納されるとこの夫婦が皆に紹介され、その後に神子舞が舞われている。山梨県内には新婚の夫婦を祝福する行事がある。南都留郡河口湖町小立乳ケ崎には、「おんべい渡し」と称し、道祖神に扮した者が新婚夫婦に難題を発しておもしろおかしい所作を要求する行事(2)があり、富士吉田市小明見向原の「オカタブチ」では天狗やおかめなどの面を付け、新婚の家をお払いをして歩く行事(3)が報告されている。このように道祖神の祭りをきっかけに新婚夫婦が村の一員として認めてもらうわけである。

 「山梨県の道祖神」(4)の中で中沢厚氏は、昭和17年の牧丘町赤芝の道祖神祭りのことを記している。道祖神の夜祭りは、道祖神役の青年が手にした巻物らしいものを道祖神に供えると、それを合図に笛が奏でられ始める。この1年間に結ばれた夫婦が進み出て礼拝すると獅子舞が始まり、やがてドンド焼に火がつけられる。幕の舞が終わるころにはドンド焼も下火になり、祭りは村内祝いに移る。道祖神の一行がそこを出発すると、笛、太鼓、獅子方の列に子供らの一行が加わる。目指す家が近づくと子供らは「オカッサンは内にか、ゴテーサンは外にか……オユエーもうす……」とはやす。道祖神代行とこれを迎える家の者はあくまでも厳粛で、「道祖神ごくろうさま」と庭先に立って出て丁重に迎える。道祖神たちは座敷の縁側から上がって床の間に巻物と獅子頭を置くと、上座に並び嫁のはじらうような祝言葉を述べるのだが、要するに上手に早く子を生んで幸せにやれというのである。酒の膳部が運ばれ、子供らに菓子が配られると幣の舞が舞われて次の家に行列して行く。このようにして新婚祝言のあった家をまわり、道祖神場に戻って婿殿を盛大に胴上げすると、儀式としての道祖神祭りは終り、演芸道祖神祭りとなる。宿に決められた家を会場に、獅子の幕の舞と「狂い」が演じられた後は製糸工場から帰休した娘たちの指導で出し物が続くのであ。

 以上が赤芝の祭りの様子である。道祖神の前で行われる夜祭りは、先にも述べた牧平の祭りで新婚夫婦が拝礼する様子と同じであり、村内祝いにおける道祖神一行のはやし青葉は、現在でも近くの中野で開くことができる。また新婚祝言のあった家での嫁のはじらうような祝い青葉は、河口湖町小立乳ケ崎の「オンベい渡し」と似ており、婿殿の胴上げは先に述べた栄村箕作の道陸神祭りで見られる。昭和63年の小正月に中巨摩郡櫛形町下市ノ瀬の道祖神祭りを訪れた。ここでは14日の夜、宗林寺を舞台にして獅子舞が舞われるが、その合間にいくつもの余興が組まれており、この地区の芸能大会といった趣であった。これもまた赤芝で行われた演芸道祖神祭りと同様のものと思われる。


写真は山梨県櫛形町下市ノ瀬道祖神祭りの獅子舞

3.
 道祖神の祭りではないが、オカタブチと同様の行事が長野県下伊那郡上村上町(かんまち)で行われている。小正月14日夕方、正八幡社に集まった年長の子供たちがほたを燃やしてこもり、15日未明になるとクルミの若木を削って作ったゴイワイ棒を持ち、太鼓を打ちながら町内をまわる。これを在方(ざいかた)まわりといい、2巡目からは町内の男の子が加わる。3巡目になるとこの1年間に結婚した夫婦の家に行き、「マイッタ マイッタ ゴイワイポウニマイッタ」と威勢よく大声で叫び、縁側を棒で叩き、御祝儀をもらって正八幡社で社殿の床を叩いて祝儀を分配して終る。現在は新婚の家の事情に合わせるため、14日の夜にまわってしまっているが、年長者によるおこもりと15日未明の在方まわりは行われている。

 長野県下伊那郡大鹿村文満(ぶんまん)や上蔵(わぞう)ではホンヤリサマのやぐらのことをオカリヤともいっており(5)、これに男根の形をしたゴホンゾンを飾っている。文満ではホンヤリサマを燃した後に、飾られていたゴホンゾンを新婚の家へ持って行き嫁に触らせている。このように伊那谷にも嫁祝いの習俗が残っており、山梨県や佐久地方とのかかわりがあったのか興味深い点である。

 長野県上伊那郡宮田村中越、大久保では、新嫁が姑に連れられてどんど焼きにお参りすると、オイベッサマに飾られた藁で作った鯛で、子供たちが嫁の尻を叩いたという(6)。古くは嫁の尻叩きは若衆の役目であったといわれるが、酒宴の果てに乱暴をするなど弊害が多く、富士吉田市周辺では宝暦5年(1755)に、オカタブチの禁止も含め道祖神祭り一般に関する禁止令が出されている(7)。川上村においても天保8年(1837)に禁止令が出されている(8)。このようにしてオカタブチが衰退したり、子供の手に委ねられてきたようである。

 また、教育上の問題から衰退した部分もあった。それはとんど焼きやホンヤリサマといった火祭におけ猥褻・猥雑なはやし歌の衰退であった。前述した牧丘町赤芝の道祖神祭りの中に、村内祝いにおける子供たちのはやし言葉があった。このはやし言葉と似たものを近くの中野という所で現在も聞くことができた。
お祝い申せ
オッカッサはうちにか−
なんど(納戸)のすみで
ボボの毛を33本そろえて
もう1本たりんぞ−
 この言葉は大人がうたっていたが、子供に良くないといい、「お祝い申せ」だけをくり返すことが多かった。長野県上伊那郡飯島町七久保南街道では道祖神の傍らに小屋を作り子供が泊り、新しく嫁をとった家へ行き、「おかか家にか お祝い申す」とはやしたという(9)。牧丘町で聞いた言葉に似ており、確かに各地に分布していた習俗なんだと、改めて興味を持たされたわけである。

 オカタブチなど嫁祝い・婿祝いの習俗は各地で行われていたといわれるが、衰退が急速だったために断片的に事例が残されてしまった。それだけ社会環境の変化に適合できなかった習俗ともいえよう。

   註.
(1).後述する河口湖町小立乳ケ崎の「おんべい渡し」、富士吉田市小明見向原の「おかたぶち」の他に、大 月市梁川町彦田の御マラ引き、北都留郡上野原町鶴島駒門の俵転がし、中巨摩郡敷島町下福沢の七福神、富士市のダイノコショウノコなど。
(2).伊藤竪吉「双体道祖神」(緑星社300頁)、高山茂「山梨県の小正月の芸能」(まつり通信335)など。
(3).高山茂「山梨県の小正月の芸能」(まつり通信335)など。
(4).有峰書店(昭和48年)。
(5).「大河原の民俗」(昭和49年)85頁。
(6).「上伊那誌民俗篇上」(昭和55年)961頁。
(7).長沢利明「小正月と年中行事」(帝京大学山梨文化財研究所研究報告第2集1990年)149頁。
(8).「川上村誌民俗編」(昭和61年)769頁。
(9).前掲註(6)953頁。

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