【 NO.17 】 2000. 5. 6

1.飛鳥の石造物に思う

 今年の2月23日付の新聞各紙において、奈良県明日香村での新たな発掘が報じられました。明日香村歴史民俗資料館南側で行われていた酒船石遺跡の発掘調査においての発見でした。この調査は、奈良県が飛鳥池遺跡を埋め立ててつくる「万葉ミュージアム」建設に伴う村道工事現場において行われたもので、遺構規模は東西35メートル、南北20メートル程度で、中心部の平坦部において、12メートル四方の人頭大の石が敷き詰められ、その南端に亀の形をした水槽と、その頭に接するように小判型の水槽が見つかったものです。
 
 亀形石の大きさは全長約2.4メートル、背中の円形水槽の大きさは直径約1.6メートル、深さ20センチメートルあります。南側を向き4本の脚と尾が彫られています。この尾から北北西に向かって溝が作られており(写真の敷き詰められた石の間の窪み)、この水路の法線を反対の南南東に引くと、著名な酒船石につながるといいます。酒船石は、平らな表面に溝を掘り込んであり、一説では酒作りに使われたのではないかともいわれていました。

 今回の発掘で酒船石の用途がかなり具体的になったと指摘されています。
 酒船石の溝から流した水を小判型の水槽にため、続いて亀の鼻の先から甲羅の水槽に水を導き、尾から流したものとみられています。

 明日香村教育委員会では、斎明天皇(655〜661年)の時代の施設とみています。

 斎明天皇によってつくられた両槻宮(ふたつきのみや)の関係施設ともいわれ、両槻宮は天宮(あまつみや)と呼ばれ、道教の仙人の宮を意味するといいます。神仙境とよばれた理想郷を見立てた宮ともいいます。酒船石遺跡が須弥山であり、広場は饗宴施設ともいわれます。庭園史跡としては、平成11年に明日香村岡の飛鳥浄御原宮推定地の北西100メートルの飛鳥川東岸で酒船石が見つかり、あわせて噴水状の石造物も出土しています。

 このように飛鳥には流水施設をもった庭園が散在していたようです。


2000.3.25撮影

 飛鳥のこうした石造遺物をみると、今まで埋蔵されていたことも手伝い、出土物を見る限り、現代の彫刻といってもまったく言い過ぎではないほどに、精巧な彫りがうかがえます。

 目を信州にうつしてみましょう。

 文化財に指定されるような古い石造物というと、五輪塔や板碑などはみられるものの、飛鳥のようなしゃれた遺物はありません。古代の遺構にみられる石造遺物もありますが、それとは異なります。

 事例をあげてみます。
下高井郡山ノ内町湯田中弥勒石仏 1130年 (長野県最古)
北佐久郡立科町津金寺宝塔 1202年
駒ヶ根市下平十王像 1205年
北佐久郡北御牧村石龕 1333年
上伊那郡辰野町沢底道祖神 1505年 (偽名説あり)
諏訪郡下諏訪町土田墓地弥勒仏 1575年

 古くてもこの程度です。ましてや路傍に見られる民間信仰の遺物にいたっては、遡っても江戸時代初期のものがあるぐらいで、なかなかミレニアムをまたぐようなものはないわけです。たまたま2000年といって囃されていますが、なかなか1000年の壁は大きいわけです。西暦1000年といえば、平安時代真只中で紫式部の時代です。

 江戸時代初期の石造物にしても、また下った後期のものでも、雨ざらしになっていた石造物の表面は摩滅が著しいものです。飛鳥で発掘された亀形石も長野県で多く産出される花崗岩であって、石質の違いがそれほどあるとは思われません。したがって、埋没していたということがいかにそのものの劣化を防いでいたかがうかがわれるわけです。飛鳥の遺跡群がなぜ埋没しているか不思議ですが、明らかに長野県における埋没物とは異なる環境があります。県内でもときおり工事現場から石造物が発掘されることがあります。多くは江戸時代のものと推定されますが、これらがなぜ埋没したかという原因が異なるのです。長野県の場合は、山間地域ですので災害常習地帯ということになります。こうした環境から、その多くは河川の氾濫や山崩れという自然災害を介して埋没してしまうケースがおおいわけです。したがって発掘されても、石像の表情がわからないほど摩滅していることもよくあることです。飛鳥のように昨日彫ったといっても不思議ではないほど美しい姿を、それも1000年以上の時を越えて見せることはないのです。




2.田んぼの土手に見られる草花

 上伊那誌編纂会が1957(昭和32)年に発行した『上伊那誌資料3』において、有賀進氏は当時の土手に生えている植物について著しています。
 それによると、JR(当時は国鉄)飯田線上片桐駅から諏訪形を経て現在の松川北小学校あたりを通り、町谷あたりまでの植物を記しています。
ヤナギタデ コニシキソウ キンエノコロ ホトトギス ウド
メヒシバ ヌカキビ クワクサ ノキシノブ センボンヤリ
ドクダミ スカシタゴボウ ヤハズソウ オニドコロ ヤマトウバナ
タマガヤツリ スルボ カゼクサ イヌワラビ ミズヒキグサ
イヌビユ ゲンノショウコ チカラシバ ヘビノネゴザ ノダケ
ヒエ エノキグサ スズメノヒエ ノガリヤス ウマノミツバ
ウシクグ オオバコ トダシバ ネズミガヤ チヂミザサ
キツネノボタン エノコログサ オオアブラススキ ワレモコウ リュウノウギク
イヌヤマハッカ オガルカヤ ヤマイ カワラハハコ メドハギ
ヨシ ツルヨシ チドメグサ ツリフネソウ タニセリモドキ
コウゾリナ マキエハギ コシオガマ ナデシコ カワラドクサ
シラヤマギク ゼンマイ クララ シシウド チゴザサ
カモジグサ センダングサ アシボク イタドリ イヌタデ
オトコヨモギ ウシクサ コアカリ オオバクサフジ ヒトリシズカ
ヤマニガナ アメリカアキノキリンソウ
 以上のようなものでした。

 さて、4月22日に開かれた飯田市誌編纂委員会全体会で北条節雄氏は、飯田市千代の「よこね田んぼの植生」について報告されました。
 そのなかで、ほ場整備によって整備された飯田市上郷丹保の植生と比較しながら両者の違いを述べています。

 両者の大きな違いは、よこね田んぼでは4月と8月に植物の種類が多くなるいっぽうで、丹保ではよこね田んぼのように4月と8月の間の落ち込みが少ないというものでした。丹保の場合は、春型でも秋型でもない植物が生育するためで、要因として帰化植物が多いためといいます。植物の種類では、187種を数えるよこね田んぼに比較すると、丹保においてはそれより50種ほど少ないようです。
 
 こうした状況もあって、よこね田んぼには下記のような希少種の植物も多いようです。

スズサイコ キスゲ オミナエシ イボクサ
ヘラオオバコ イトイヌノヒゲ ミヤコグサ ネジバナ
ノハナショウブ ヒメナミキ ヒメミカンソウ ワレモコウ
ヤナギタデ ミズオオバコ タヌキモ

 さて、田んぼの土手に何が生えようとまったく意に介しない私たちですが、それだけ野に出て物をみる機会を失ってきたということでしょうか。
 それでもかつて自らが育った環境を思い浮かべてみます。昭和30年から40年代のころに子ども時代を過ごした人たちは、まだまだ野に咲く草花を覚えているのではないでしょうか。もちろんしだいに野に出る機会が減ってきていました。遊びはテレビやゲームの出現で家の中に向かっていったようにも思います。しかし、現在の環境とは違っていたように思います。田舎と市街化する近郊とは環境が異なるでしょうが、30年や40年前には子どもの遊ぶ姿が外で見られたはずです。ほ場整備により、減少したりなくなってしまった草花があるといわれ、その通りと認識もしていますが、人々の心の中から野にある植物が消えていったことの方が大きな変化であるように思います。

 とはいえ、かつて田んぼの土手にいくらでもあったものが、今はなくなりました。上伊那郡飯島町では、町内のほとんどの水田地帯がほ場整備で環境を変えました。昭和40年代後半からから50年代のことです。田んぼにあったものは、シバ・ススキ・チガヤ・エゾタンポポ・ツリガネニンジン・スミレ・タチツボスミレ・マツムシソウ・ワレモコウ・ゲンノショウコ・キスゲ・カワラナデシコ・ノアザミ・ヨメナ・ネジバナなど多様でした。しかし、ほ場整備後には、ノアザミ・ワレモコウ・ツリガネニンジン・キツネノカミソリ・スミレ・マツムシソウ・ナンバンギセルといったものが減少あるいは見ることができなくなったといいます(『飯島町誌』上巻)。

 先に紹介した上片桐での昭和32年ころに見られた草が、どれだけ残っているのか、興味深いものです。ただ、あげられた種類をみると、雑草類とくに田んぼの害になるようなものがずいぶんみられます。そうしたものは強い種類ですから、それほど変化がないかもしれません。

 春や秋の七草の材料がそろわないといいます。
 そうした草がなくなってしまったためいわれるのですが、それを自然保護の立場から嘆くのも滑稽でもあります。七草そのものが人々から忘れられている今、何が必要か問われるわけです。もちろん、希少種を絶やすことはしたくはありませんが、すべては人々が生き長らえてきたなかで行われた仕業なのですから。考えてみれば古い時代に帰化して、希少になっているものもあります。よこね田んぼであげられたヘラオオバコはヨーロッパ原産のもので、江戸時代末期に帰化したものといいます。

 また、イボクサは田んぼの雑草でつるになって田んぼの中を伸び、節々から根をおろして繁殖するためやっかいな雑草といわれています。日々を描く NO.10においても「田の草取り」をとりあげましたが、わたしが携わっている田んぼにもこのイボクサが出てきて、ずいぶん苦しめられます。そのまま秋になるとピンク色の可愛い花を咲かせるとともに、かつてはイボ取りの薬にも使われたといいます。そこから名前がきているともいいます。

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