『遥北通信』142号(H6.7.1)

松本市中山沢村の道祖神

三石 稔


 松本市中山は松本市街地南東の西面傾斜地にあり、市街地と中山地区の間には中山丘陵がある。したがって高台である中山地区であるが、中山から市街地を見渡すことはできず、山の中といったイメージが感じられる。現在の松本市になるまでは、いくつかの旧村が合併して大きくなってきたわけであるが、中山は比較的早くに松本市に合併した地域である。しかし、同じ松本市の中でもかつては貧乏な村として周囲から見られたり、また自ら中山は貧乏である、という意識を持ちながら暮らしてきた地域である。埴原五姓といわれる家柄を重んじた同姓集団は、同じ姓の家とのつながりで社会生活を営み、他の家とは一線を隔して暮らしてきた。こうした地域性のためか、社会生活組織も隣組といったものとは異なり、一集団化した集落内であっても付き合いをせず、離れた所に居住する同姓だけで付き合いをしてきた家々が多い。

沢村の掘り出された道祖神

 こうした社会生活組織を持つ地域の中で、ここに紹介する沢村の道祖神集団は、同姓集団を越えて組織されており、矛盾を感じる現象でもある。まず、この地域の社会生活組織の現実を簡単に説明する。ここでは(中山全体も含めて)第二次世界大戦中(以後「戦時中」という)に隣組組織ができたという。この隣組は五軒単位で組まれたもので、クミと呼んでいる。このクミが集まって集落単位に常会という組織がある。これも戦時中にできたもので、米の配給や通知をするために、集団化した組織がつくられたわけである。他に米の供出、煙草の配給、衣料品を買うときの札といったものも、この単位で配給された。戦争に勝たなくてはならない、という意識が人々にあったのでそれまでの習慣を越えて従ったという。それまでは、同じ集落に住んでいながら姓が違うために、集落との付き合いもせず、義理で呼んだり呼ばれたりということもなかったという。中山地域すべてがそうであったわけではないが、比較的そういった付き合いのしかたが一般的であったようである。

 こうした戦時中の社会組織の変更にともなって、しだいに人々は集落単位とか、隣組といった単位に暮らしの習慣が変わっていったようである。しかし、中には戦争後に以前のかたちに戻った所もあって、現在でも同姓によるつながりが強い現象は残っている。また、常会によっては区割に不満があって、常会の組み直しをした所もあった。今回紹介する沢村の道祖神を祀る地域の中にそういった所があって、現在でも常会の境界線が複雑で、地元の人でないとわからないような状況である。ここの常会ができた当初は、胡桃沢村常会と称して、埴原(はいばら)神社の南にある宮入川の両側の集落をとりまとめていた。この常会の上には宮の上常会があり、北から西にかけては宮の下常会、南西には古屋敷常会があった。しかし、かつての同姓づきあいに慣れているといった感情や、家柄が違うといった意識があったりして、この常会が二つに分離する結果になった。宮入川の南側に仙石姓の家が何軒もあり、また南西の古屋敷常会にも仙石姓の家が何軒もある。この同姓である仙石姓の中で本家筋について、畑中(宮入川南側の地名)と古屋敷で言い争ったりしたようである。このため、胡桃沢村常会が胡桃 沢と 宮南常会に分離したときも、同姓でありながら、また家続きで同姓がつながっていても、どちらかに分れて常会に入ったようである。ようするに血筋で常会を組んだために、同じ姓であってもA派とB派に分れているということである。さらにそこにそれ以外の同姓集団がどちらかにつくというかたちをとったために、まさしく派閥争いのように常会が分割されていった様子が感じとれるわけである。こうして常会境が入り組んだわけである。図にはそうした常会別まで記さなかったが、この点線枠の中にさまざまな感情があったことを把握したうえで、沢村の道祖神祭祀の様子を見ていくこととする。

 沢村とはいうものの、現在は埴原東という地域の宮南・胡桃沢・宮の下・音渡川といった常会にまたがった地域にこの道祖神を祀る仲間が分布している。道祖神は宮入川の橋の北側のたもとにまつってあって、二体並立している。その内の一体の双体道祖神の方は、何年か前に宮入川を改修したときの工事中に、川の中から出てきたもので、並べてまつったという。この宮入川は、昔は名もない小さい川であったというが、しだいに大きくなって改修後に、一般に宮入川と呼ばれるようになった川のようである。

 ここの道祖神については、道を守ってくれる神様であるといい、祭りを旧2月8日に行なっている。祭りではまつる範囲を北組・中組・南組と三つに分け、それぞれの組から当番を二人ずつ出してお祭りをしており、これは戦時中からこういう当番制を組んだものだという。それ以前は、全戸が出てお祭りをしていたものだという。2月7日の宵祭りにのぼりを立てて灯篭をつける。翌8日に当屋で赤飯をふかす。昭和三年ころから始まった祭りといわれ、長男が嫁をもらったり、あととりが生まれると、小さい「道祖神」の灯篭を道祖神に奉納した。今は灯篭を奉納することは少なくなり、お酒を奉納する場合が多い。昭和3年頃に始まってからずっと奉納された灯篭やのぼり、大きい灯篭を保管している家がある。道祖神の東側2軒目にあたる胡桃沢常会の花村貞成氏である。ここに預ける特別な理由はないが、道祖神の近くの家という理由のようである。小さい灯篭が痛んでくると祭りの時に始末をするという。道祖神にはゴクウ・ラクガンといったお菓子とお酒を供える。また、それぞれの家では、餅をツトッコに入れて供えたが、しだいにおこわを供えるようになって、現在では供えることも少なくな った。当番の出し方は順番である。祭りの後になおらいをする家は、当番で回ってくる家がいつも同じ顔ぶれなので、今年はだれだったから次の当番の時はだれだ、というように自然と決まってしまうという。片付けは8日の日のうちにやってしまう。

 2月8日の祭りは大人の祭りであって、これに対して小正月のサンクローは子どもの祭りである。昔は子どもたちが自分たちで神木を伐ってきて建てたもので、神木はどこの山へ行って伐ってきても文句は言われなかった。このサンクローを行なう場所は道祖神の前であった。14、15日の2日間焼いて、小屋を最後の晩に焼いた。若い衆がサンクローの火を付けに来ることもあって、それを子どもたちが防いだものである。また、子どもたちの間で付けあうこともあったようで、ここでは宮の下のサンクローに火を付けに行ったことがあるという。


道祖神をまつる範囲
 ここでは道祖神を祀る範囲が別図のようである。しかし、最近サンクローを行なう範囲と道祖神を祀る範囲が異なってきている。サンクローをPTAが主になって行なうようになってから、常会単位での位置付けが強くなり、常会を越えてまで他のサンクローの仲間に入るということをしなくなってきている。これは子どもの祭りであるサンクローに限られており、2月8日の祭りは本来の祭祀範囲で行なわれている。

 また祭祀範囲が入り組んだり広くなったりする原因に、やはり同姓集団のきずなが強いということも起因している。例えば少し遠い所に分家をしても、元の道祖神仲間に入るということは事例として多いようである。

 県道端にある道祖神は、宮の下で祀る道祖神である。こちらは沢村の道祖神と違い、数軒で祀っているだけである。年銘などはなく、女神の左上に日輪らしきものが刻まれている。「帯代金十両」と表面にある。かつては頭屋において、旧二月八日(オヨーカという)に赤飯をふかし、お頭つきを買ってお祭りをしたという。また、その時お御酒をあげてしめを張ったという。こういった祭りは男衆が集まって行なっていたが、現在は女衆にゆだねられた。湯の原や崖の湯に行って温泉に入ってくるという。

 沢村の道祖神について、掘りだされた双体道祖神は、銘文などなく、像はかなり磨耗している。文字碑の方は「道祖神」とあり、やはり年代銘など見られない。中山には像を彫った道祖神が九基、文字碑が20基ある。