【 5月節句のころ 】
 写真は昭和63年の4月末に、兵庫県和田山町を訪れた際に撮影したものである。なんのことはない風景であるが、このページでは、そのなんのことはない写真から何か見えてこないか、そんな気持ちで写真をながめてみたいと思っている。どのページもそうだが、それように用意した写真ではないため、意図どおりにはいかないが、ページ用の写真も用意していきたいとは思っている。
 画像は、ページ用に解像度を落としているため、雰囲気は半減しているが、もとの画像を眺めると、いかにも春、農作業を控えた農村の雰囲気は十分にある。明確にどこの地点の写真かはわたしの記録にはないが、和田山町にある高遠石工の石仏を訪れたあとの帰路に撮影したことは確かである。

@ 五月の節句を前に、鯉幟があがる。かつては鯉幟の竿は竹が使われたものだが、このごろは専用のポールを販売していてそれを使う。この鯉幟は、すでに汎用品のポールが使われている。
A 屋根の形からして、もともとは茅葺の屋根であったところへトタン葺きで覆った屋根と思われる。かなりの急な屋根勾配である。
B 銀色、いわゆるシルバーのサッシは、近頃のカラーサッシとはことなり、当時は一般的な建具として広まっていた。サッシが使われるようになったのは、土地土地によって若干の差異はあるだろうが、昭和40年代ころか。戸板、あるいは障子戸が外気との境にあったものが、サッシの登場とともに、いっきに防風性は高まった。
C Aでも触れているが、もとは茅葺の屋根が多かったのだろうが、瓦に変わっていった。当初は今のような丈夫な瓦は少なく、数年で割れてしまうこともあった。耐久性という面では茅葺以上ではあったが、けして永久のものではなかったのである。
D 土壁の蔵だろうか。雨が当たると痛むため、トタンが手ごろに利用されるようになると、このようにトタンで壁を覆うことはよくあった。
E 柿の木は、どこの家の敷地にもかならず一本は植わっていた。かつての宅地廻りには、かならず植えられるもの、あるいは植えてはならないものというものが地域によっていろいろいわれたものである。
F 物置は農家にとっては、かならず必要であった。
G 4月末であるが、まだ水田は荒起しされていない。
H 竹林が多く見られる。
I 電柱と電線は、近頃では景観を壊すものとされ、景観保全地域では地中化されているが、電柱と電線があるからこそ、人々の営みが見えてくるような気がするがどうだろう。わたしも風景の写真を撮ろうと思えば、必ず電柱電線を避けるが、避けなくても自然な写真が撮れることがわたしの本当の望みである。かつて、電気がなかった時代にはなかったものであるが、電気は人々の暮らしを大きく変えてきたものであることに違いはない。当初は木柱にコールタールが塗られた電柱であったが、今ではそかな電柱をみることはない。