【 NO.28 】 2010. 9. 26


死に支度を考える

 だいぶ前のものであるが、2007年12月14日から2008年1月11日にかけてCosmos Factoryに綴ってきたものをここにまとめて掲載した。なお、まとめるに当たって若干修正を行っている。
@寺の危機

 「老い支度、死に支度」で触れたように、自らのことを思いながらも死に至るまでにやらなくてはならないこと、また死後のこと、などを家庭をもったときから考えてきた。それは自らのことだけではなく、身近で亡くなるさまざまな人たちとの記憶、そして変容をとげてきた葬儀の姿を見ながら思う、自らへ投げかけている課題である。中日新聞に最近「少子高齢化時代の葬儀のあり方」という記事が二度にわたって掲載された。「現代の葬儀があまりにも厳粛ないのちの引継ぎを欠いている」と指摘する大正大学の藤井正雄氏の連載記事である。もともと「葬式仏教」といわれる日本の寺の存在。藤井氏が指摘するのは、「葬儀式の重点が故人がいかに現代社会に生きたかといった、仏教とは直接関係ない故人の業績に移ってきた」という。確かにイベント化する葬儀の中で、故人の業績をパンフレット化して配布するなどということもされるようになった。葬儀が親族だけのものではなく、不特定多数の関係者に広がるにつれて、芸能人の葬儀と変わらないような葬儀の存在が目に付くようになってきている。そのいっぽうで、生前に交友の少なかった人たちや、長い闘病生活にあった人、もちろんその背景として親族がみな地味な暮らしをしてきた人たちの葬儀は、密葬ではないのに密葬に近いほど寂しいものとなっている。

 地域で継承してきた葬儀は、明らかに個の葬儀になりつつあり、それは地域社会の崩壊だけにあらず、人々の意識が多様性を帯びてきたり、少子高齢化という社会の現実が生んできた親族の減少というところにもよるだろう。藤井氏はこうもいう。「故人が会社を起こし社会に貢献し有名人になっていようが、黙々と雑草をむしっている名もない老人とどう違うのか」と。直接的に人の死にかかわることが、子どもが少なくなったということにも関係して減少し、自らも祖父母の死後、葬儀と言うものにあまり縁がなかった。そうした中で葬式仏教がどう変化してきたか直視していないが、藤井氏がいうには、戒名のつけ方は大きく変化してきているようにもうかがえる。金で戒名を買う時代、葬儀の意味するものが変化しても致し方ない現実を産み、それはますます葬儀というものの考え方が問われてきている時代かもしれない。もちろん葬儀だけではないだろう。そうしたなか藤井氏は、さらなる高齢社会化は、さまざまな経済負担が若い世代にのしかかり、いずれ葬儀に対してより経済的な意識が働くともいう。檀家が半減することは当然の成り行きである。このことはわたしも以前から認識していて、現在も住職だけでは生業がなり立たないから、住職という仕事が片手間という寺も多い中、いずれ地方の寺はなくなっていくだろうと予測している。わたしの生家がある地域にも古式ゆかしい歴史ある寺があるが、町中の檀家を一手に請けたとしても、人口減や多様化によって、胡坐をかいているようなことでは生活が立ち行かなくなると考えている。

 寺の危機ともいえるのだろうが、このことについては福澤昭司氏が、「葬儀社の進出と葬儀の変容」(国立歴史民俗博物館編『葬儀と墓の現在―民俗の変容―』2002年 吉川弘文館)の中ですでに触れている。松本市域の葬儀社への葬儀の移行のなかから、まとめとして述べている「葬儀の行く方」において、葬儀社へと葬儀の場が移るなかで「次の変化が予測されるのは、葬式への寺のかかわりである」と述べ、「寺に付属しない公設の霊園を求めた人々にとって、寺はどれほどの意味をもつのだろうか」という。その果てには、結婚式場に専属の神主や神父がいるのと同じように、葬儀社が専属の僧侶をおいても不思議ではなくなる。それがまだ崩れずにいるのは、まだまだ檀家と檀那寺の関係が強いとともに、そうした関係へ葬儀社も足を踏み入れなかったからだ。しかし、かつての地域社会、そして冠婚葬祭というものを伝統的に考えてきた民俗社会はことごとく消え去ろうとしている。そうしたなかに、どれほどコミュニティーが必要だといって地域社会が見直されようと、寺の必要性を感じる人が減ることに変わりはないはずだ。

 とすれば寺は葬式仏教を見直し、人々のこころの助けになるような存在で立ち直るしかないように思うわけだ。




A子に託せない時代

 寺の役割は何なのか、そんな問いはわが家でも何度も繰り返してきた。家を持ったら墓を用意しなくてはならない。そして寺はどうするんだ、そんな考えはごく当たり前の地方の人々の感覚だった。なぜ死期が近くもないのに死に支度をそんなに急がねばならないのか、不思議に思う人たちもけして少なくないはずなのに。わたしの隣組は、戦後に開けた比較的新しい地域である。ここへ住むようになってから、何度も隣組の葬儀に関わってきたが、どの家も一応は墓地を持っていた。ある家では墓地は用意してあったが、寺を決めてなかったため、父親が亡くなった際に、急遽近くの寺の檀家となった。しかし、まだ整備はされていなかったが、墓地は所有していて、墓掘り担当だったわたしの居場所は用意されていたわけである。

 大正大学の藤井正雄氏は「厳粛ないのちの引継ぎがないという事実は、「生前の子供や孫たちに迷惑をかけたくない」と「最期の幕引きは自らの手で」と自分の葬儀を演出したり、お墓を生前に購入したりすることに繋がる」という。親子の信頼感というところにつながるのだろうが、死後のことをしっかり準備をしておかないと、子どもたちに迷惑をかける、という意識の表れである。それが親子の断絶とも言い切る藤井氏であるが、「子のために」と思ってしている死後の準備も、裏を返せば親は子に自らを託せないほど、信頼感を失っていると暗に示している。わたしが「そんな選択もいいか」と思った生前葬も、子どもとは縁を切った独りよがりなものなのかもしれない。生きているときには、もちろんそれぞれの人生があるのは当たり前であるが、死後のこともしっかり自らで道筋を付けておこうなどという意識は、このごろのものなのだろうか。果たして現代の死に支度の意識は、何がそうさせたのか、奥の深いものである。

 藤井氏はこんな最近の葬儀の様子を指摘している。かつてなら親の葬儀の喪主は息子、養子さんならその養子が担い、葬列では位牌を持ったものだという。しかし、このごろは喪主はもちろんのこと、位牌を持つのも長年連れ添った奥さんが担うという。家を継いで行く子どもに託さない現代の葬儀の変化なのだ。地方ではまだまだ喪主を務めるのは長男、長男がいなければ次男、そして男子がいなかった家なら養子が担うというのは当たり前だ。しかし、寺からの離脱、地域社会からの離脱、そして少子化という現実は、明らかに地方における葬儀へも波及しかねない変化だろう。「この子が家を継いで行く」という意識をあらわにするために行われる地域の行事は多い。そうしたものも、家と地域社会という関係が必要なくなれば、なんら意味をもたなくなる。たまたま葬儀という場を例にとって、継承のできない時代を捉えているが、もしかしたら地域社会すべてがこうして継承できない構造を求めているのかもしれない。葬儀だけではないのだ、この社会の変容は・・・。




B問う、墓の必要性


 口で言っていることと現実のこととは、実際その場に遭遇してみればうまくはいかないだろう。それは自らも認識している。とくに肉親の死に遭遇したともなると、慌てる部分もたくさんあるはずだ。そういう意味では、自ら葬儀に対していろいろ考えている以上、さまざまなパターンを想定しておかないといけないだろう。もちろん、それを現実的に「遺言」として残す必要性も感じている。妻とふたりで「それでいいよね」などと簡単に口約束したからといって、親族もいるのだから、際どい状況下で生前に思っていたことを実践することはできないだろう。だからこそ、考えたことを実践できるような基本的なことは、記録して残しておくことが必要だろう。そんなことを生きているうちに考えるのも、「どうなんだろう」などと自問自答する。子どものいない家にとって、自らが死すということはどういことだろう。誰かが埋葬してくれるだろうが、きっとそんな人たちにとっては死すことはとてもつらいことのように思うのだが、わたしには解らない。

 『葬儀と墓の現在』において「葬儀の行方」を著した福澤昭司氏は、この1年に自ら関わった実父と義父の葬儀を経験して「父の葬儀のことども」の中で感想を述べている。「石塔の建立について、死後の供養の永続性が保証されない現代社会にはそぐわないとの理由で疑問を呈した。客観的に考えればこの考えは間違っていないと思うが、今回は当事者として現実的な問題に立ち会って、気持ちが揺れているのも事実である」という。現実的に遺骨となったものを土に返して無にしてしまうには、故人が消えてしまうようで忍びないという。たまたま墓地を用意してあって墓石もあるから、遺骨はそこへ納めることができる。その墓石は父が用意したもので、いざとなって感謝しているという。この気持ちは、わたしが現実的にその場に遭遇したら、生前の考えなど飛んでしまうとういうことを証明するようなものである。だからこそ、自らの死後の支度をしておかなければ、などと考える。前回に触れた藤井正雄氏の言葉でいうなら「厳粛ないのちの引継ぎがない」から葬儀を演出することになる。なぜそれが演出になってしまうのか、そのあたりの感覚は人によっては納得いかない意見だろう。演出ではなく自らのことは自らでするという「優しさ」と捉える人もいるだろう。しかし、「家を継ぐ」という意識を自ら望まないことを主張しているようなもので、しいては地域社会への貢献度も無くすことになる。このあたりも異論は多いが、すでに地域社会と言っているわたしの指す空間は、地方においても空間割合は多いが、人口割合でみれば、極度に限られた部分に過ぎなくなっている。地方の市部を中心に地域は流動するものという現実が常態化し、流動化してもそこに住む人たちが考えること、継続していくものということになる。あきらかに親が子にという家の継続性は重視されない。この感覚は、まさに死に支度の意識から始まっているのかもしれない。あるいはその逆で、死に支度をせざるを得ないという環境を引き起こしている。そういう意味では、わたしもまた地域をさまざまに斬るが、つまるところ地方を見捨てた人間といえるのかもしれない。ただ、このことはわたしの家における親子関係について触れなくてはならないが、このことはまたあらためて触れたい。いずれにしても社会構造の変化、そして意識の変化をみるにつけ、すでにかつての社会を回顧して参考にしたとしても、あくまでも参考程度で、あまり意味がない状況にあるのではないかなどと考えるこのごろである。

 さて、本項で掲げておかなくてはならないわたしの死に支度、それは福澤氏が考えていたような墓石の必要性というものだ。死後の供養が継続されないとなれば、やはりモノを残す必要はなくなる。そういう意味でも「老い支度、死に支度」で触れたような共同の墓碑という考えはひとつの方法なのだろう。




Cいつまでも残る遺骨

 供養する者がいなくなれば、墓も朽ち果てていく。継続しなくなった親子関係ともいえるだろうが、この世の中では家関係に至っては親子関係以上に衰退している。したがってモノを残す必要性もないから墓地も墓石も必要ない、という考えが生まれてくるわけだが、そうした時代でも遺骨に対する意識が高い場面をみる。国立歴史民俗博物館で平成13年に開催された第36回歴博フォーラムにおいて、「葬儀と墓の行方」という討論がおこなわれた。このなかで「遺骨へのこだわり」について議論されている。とくに戦没者や遭難死者へのこだわりは強く、何年経過していようと、遺骨を探し出したいという気持ちが遺族には強い。このことについて司会を務めた新谷尚紀氏は、葬儀の完了のために遺骨にこだわっているものだと説明している。したがって一般的なケースの遺骨認識とは異なるということになる。

 確かに戦死あるいは不慮の事故で亡くなった場合、亡くなった≠ニいう現実を確認する意味で遺骨に限らず遺品などが必要となる。これは葬儀の完了≠ニいうよりもその人にとっての死の完了≠ニもいえるだろう。そんななかで遺骨に対してこだわりが生まれる。

 これほど遺骨に対して意識するようになったのは、戦死者に対する遺骨意識が始まりなのかもしれない。明治以降の近代日本において、現代の元となる基本的な家族関係や社会組織というものが形成されただろう。そうした安定成長期ともいえる時代に起きた戦争という望まなかった死の場面は、人々に悲しみを与えたことは確かなはずである。まさに過渡期ともいえる一時代と今思えば見える。望まなかった「死」をどう家族が消化するか、そうした場面において遺骨が必要と思われたのはごく自然なことのように思う。ところが、現代においては家族はそのまま永遠であるという意識は持てなくなった。例をあげれば親殺し子殺しはもちろんだが、離婚率の高さ、たとえ離婚せずとも子どもたちが親元から離れて決別に近い関係になることは珍しくない。地方にいたっては、どれほど大きな家があろうと、継ぐべき子どもが家を見放すケースはざらである。そうした関係の中で、果たして遺骨に対する意識はどうだろう。不慮の事故死は望まれての死ではない。だからこそ、愛しい。しかし、死を望まれた場合は問題外として、望まれていなくとも、普通に死を迎えるケースが、どれほどの悲しみをもたらすかはケースバイケースである。このあたりの意識は、自らが世の中をさめてみている証なのだろうか。それとも年老いたせいなのだろうか。子どものころ、祖父母が亡くなった際のような肉親への強い思い入れがどうも浮かばない。

○どこの墓に入る?
 妻と墓の話を始める以前に、かつての墓は家ごとに埋葬されていたこともあって、「あんたの家の墓には入らない」とも言った。認識不足なのかそれとも地域性なのかわからないが、生家の墓に家を継ぐ立場ではなかったわたしも死ねば入れるのだと子どものころは思っていた。祖父が分家した生家は、叔母か戦時中に亡くなり、本家の墓地の空き空間に土葬されていた。まだ墓石もなく、こんもりした山が墓だということを、子どものころ祖母とともに墓参りに行っては聞いたものである。盆といえば、我が家にとってはそこから仏様を迎えていたのである。そして、祖母の亡くなったあとか(祖母が祖父より先に亡くなった)、それとも前かはよく記憶にないが、祖父がお金を出して、そのこんもりした山のところに墓石を建てたのである。その墓地の名義が本家のものか、分筆されて生家のものになっているかは聞いていないが、墓石を別に造ったとしても、本家と同じ空間に埋葬されるものなのだと認識していた。ところが、結婚してしばらくすると、母が「おまえも墓を見つけなけりゃ」と言ったのである。そのとき初めて、「同じ墓地には入れない」こと知ったのである。しかし、よく考えてみると、おそらくそれまでの墓は、分家も本家もそう遠くない場所(隣接地)、あるいは同じ空間に墓地を設けたのではないだろうか。にもかかわらず、墓地を見つけなければならなくなったのは、どういうことなのだろう。かつて山間の土地の狭い地域では、分家に出せないということを言ったものである。ようは自らの土地を分け与えて分家させても、どちらも零細な農家になってしまって生計が立たないことになる。それを回避するには養子に出したり、奉公に出したりしてなるべく本家には迷惑を掛けない方法を見出したのである。兄弟がたくさんいても、長子以外はみな遠くへ出る、そんな時代だった。そうして出て行った先で、叔父や叔母がどういう墓に入るのかは解らない。墓というもののあり方、考え方が家ごとどう捉えられているのか、意外にもよくわからないのだ。

 こうした現実を踏まえると、やはり遺骨を残す必要性が見えてこない。火葬になるとともに、そして現代の墓石(墓石の下に納骨場所を設けたもの)が登場して以来、遺骨を納める明確な場所が誕生した。土葬であった時代には、遺体さら土の中であるから、そのまま遺骨も含めて限りなく土に返っていく。しかし、現在の埋葬方法では、遺骨はいつまでも残ることになる。古墳時代の有力者ではないごく普通の人々の遺骨が、いつまでも形として残るのだ。果たしてこうした遺骨の処理方法はいかなるものなのだろう。




D両墓制

 前項で「いつまでも残る遺骨」について触れた。かつて両墓制について盛んに民俗学では触れられていたが、このごろの葬儀の変容の著しさで、現代における葬儀や墓はどこへ行くんだろう、というところに関心が高い。米田実氏は「大型公営斎場の登場と地域の変容」(『葬儀と墓の現在』吉川弘文館 2002)において、滋賀県におけるサンマイについて触れている。サンマイはその地域においてハカ≠ニ呼ばれる場所で、地域ごと一定の区画をもった共有財産的な場所として存在している。土葬時代においては、このハカに遺体が埋められ塚を築き、墓標のほかさまざまな墓上施設が設けられる。この墓に参るのは四十九日までであり、その後は個人の墓としての性格はなくなるという。共同の埋葬地はあくまでも遺体が土に返るまでの埋墓であって、先祖を祀る場所てはないということになる。そして、サンマイとは別に集落内の檀那寺に先祖代々の石塔を建立したセキトウバカを持っていて、年忌や盆といった供養はこのセキトウバカに対して行われるという。わたしも知らなかったが、こうした遺骨の埋葬されていない墓は法的には墓地ではないという。それを認識することで、再び墓とは何のために、という問いを自らしなくてはならないが、このことは後で触れよう。

 サンマイとセキトウバカという両墓制も、土葬という埋葬方法が継続されていることで続くが、火葬が一般的になると変化を来たす。米田氏は火葬化による埋葬地の変化を滋賀県甲賀郡の事例から捉えている。それまでサンマイに埋葬していたものが、@サンマイに埋葬、Aセキトウバカを墓地として石塔に納骨、B分散してサンマイと石塔に埋葬という3パターンに展開したという。これもまた過渡期のものであって、いずれすべてが火葬になり、時代か経過するとともに、さらにサンマイのの存在は曖昧なものになるだろう。事実、サンマイの利用を止める動きもあるといい、こうした動きを「墓がなくなる」と表現する人もいるという。こうした表現をすることからみても、サンマイが墓であって、セキトウバカは供養のための標ということになるのだろうか。

 さて、ここでいうサンマイという墓は、共同の墓地であって埋葬地である。こうした墓は、現代の個人ごとの納骨を目的とする墓とは異にするもので、わたしが以前にも触れた「共同墓碑」のような存在である。そうやってみてくると、もともとはわたしの望むような墓制というものがあったはずなのに、なぜか死後の世界まで垣根を作って個々を尊重するような空間を設定してきたわけである。

 遺体あるいは遺骨を埋葬するから法的に墓地でなくてはならない。そうした法的なしばりから、散骨に対して賛否がある。いっぽう樹木葬は、サンマイと同様に墓地という空間に埋葬し、そこへ木を植えようというものである。かつての墓制に近いものともいえる。しかし、そうした場所がどこにでも設定できるというものではない。開発し尽くされたこの時代、遺骨を埋める場所が隣接地にあって、それも墓石内の納骨室ではない土の中に埋められるということを懸念するわけだ。ようは産業廃棄物と同様の感覚であって、遺骨が溶けて土に浸みこんでいくことを嫌うのである。かつて土葬が当たり前であったから、そこらへんの土地には往古よりの人骨の気配があっても少しも不思議ではないのに、そうしたかつての風習は記憶から消しているのである。それは火葬から土葬に変化して長い時代を経過しているほどに意識として強くなる。歴博フォーラム「民俗の変容 葬儀と墓の行方」(2001/11/17国立歴史民俗博物館)において井上治代氏は、一関市の樹木葬の事例を紹介していて、そのなかで里山の自然を守るという観点から墓地にするのがよいのではないかとなったとき、近隣の反対を予測したという。ところがまったく反対がなかったわけではないが、少し予定地を変えたらすんなりと了解が得られたという。その背景について、「この地域ではつい最近まで土葬だったと。だから遺骨以前に、もう遺体がこの近くに埋まっていて、そこら辺には木がいっぱい植わっていたんだよと。ですから、樹木があって、そこの下に遺体が埋まっていることすら自然な風景なのです」という。土葬時代と火葬時代と何が違うのか、それほど変わるものではないのに、なぜかその後の埋葬の仕方によって、意識に変化が生まれたということになるのだろう。骨壷にしまい込んでしまうのと、土の中に埋めてしまう、その違いであり、つまるところ遺骨が後世に残るか残らないかというところに行き着く。

 法律に定められた・・・という説明に従えば、どこでも墓というわけにはいかない。とすれば遺骨の処理方法として、「遺骨も遺灰もいりません」に対する回答は、産業廃棄物的なものになっても仕方ないわけである。同フォーラムの中での話しであるが、二代前までのことはとても詳しく語られるのに、その先の話になると「そんなことは知らん」と、すでに先祖様になっている故人を語る必要はないと話者が口にしたことを紹介している。だれのものと推定できる遺骨をいつまでも残す必要性はないだろうし、かつてはそんな意識もなかったはずである。もちろん、死した者をいつまでも記憶に残してはいけない。生きている人たちは前を見て生きていかなくてはならないわけで、死した者は早く忘れられることがよいのである。




E千の風になって

 愛する人を失った者のこころの悲しみを癒す曲として葬送の際の定番になっているともいう「千の風になって」、葬送の定番というネーミングをわたしは知らなかった。そういえば、信濃毎日新聞の「新たな自分みーつけた」という記事で、安曇野市へ移り住んだ方のご主人が亡くなった際に、葬儀において孫が「涙そうそう」を歌い、返礼品は「千の風になって」を作曲者の新井満さんが歌うCDだったと紹介されていた。なるほどちまたでは「千の風になって」が葬送のイメージに合致しているようである。

 このところ墓の必要性を問うているなかで、この「千の風になって」の冒頭の歌詞「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」を大変興味深く聞いた。ようするに、お墓で祈ってもそこに祈りの対象者はいない、その代わりに風となって見守っていますよというのである。この歌が流行るとともに、その感覚が認められるとしたら、お墓の革命的な変化ではないだろうか、などと歌詞を聴きながら感じたのである。そして、その通りにこの歌が流行り、わたしの認識の上を行くような葬送の定番≠ニいう事実である。自ら「お墓はいらない」などと思っていたが、まさかこれほど時代の変化を見せられると、こちらが引いてしまうほどの世の中の動きである。「お墓はいらない」などというのは辞めようか、などという気持ちにもなる。いったいこの意識はどこからやってきているのだろうか。それを推し進めるような信濃毎日新聞1/3朝刊の特集記事、新井満と俵万智の対談「千の風 万智の歌」である。俵は「もともと父も母もお墓はいらないという考えの持ち主なんです。だから「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」に、鬼の首をとったみたいに「ほらみろ」と言うんですよ。」という。これは見事に私のこの歌への第一印象と同一なのである。そこへさらに新井は「一般の人からの感想でも一番多いのは「以前から私も同じことを考えていました」というものですね。」という。あまりにわたしの意図を証明するようなやり取りに、躊躇したくなるわけである。

 もう一度冷静に「千の風になって」ブームを考えてみよう。実はわたしが墓がいらない、と言っているのと、この歌のブームの意図とは違うのである。それはこの対談の内容を読み続けてもはっきりしてくる。対談では「再生」という言葉が頻繁に登場してくる。ようは、死んでも身のまわりの身近な人、例えば赤ちゃんとなって生まれ変わるという考えである。もう一度繰り返すが、千の風になっての内容は、お墓にはいないけれど風となっていつもあなたのそばにいますよ、というものである。モノとして祈りの形はなくとも、気持ちとしては常時そばにいる、それは裏を返せば、祈る側が亡き人を思い出さないとそばにやってこないわけである。それを言葉として表現すると、墓という形のあるものより粘り気のある、意味深なものとなる。わたしの意図は違う。墓として形が残って、いつまでも祈られるよりは、早くに忘れ去られたほうが良いというものである。思い出しさえすれば、墓などなくとも祈りは通じる。この考えは先祖様≠ニいう考えからまったく離れてしまっている。しかし、その部分だけをみれば、「千の風になって」と同じかもしれない。ただ、流行の源とは違うと思うのだが違うだろうか。最愛の人が亡くなって、気持ちとして「いつもあなたのそばにいます」といってくれると癒しになるだろうが、あくまでも歌は永遠にそこにいますよ、といっているわけではないだろう。それを「墓がいらない=それみたことか」という墓不要論に結び付けている雰囲気に違和感を覚えるのである。そして、葬送としての歌と言われると、ちょっとわたしはこの歌の本意を失ってしまうような気がするのだが、いったいこの歌をみんなどう捉えているのだろう。

 さて、そう考えているうちに、俵が言うように「墓がいらない」と思う人たちを助長するような印象があるとしたら、日本における墓の思想は急速に変化を遂げるかもしれない。一区画いくら、みたいな墓は必要とされなくなるだろう。初売りの広告の中に墓石店のものがあった。「ご先祖様のご供養を真心こめて支えます」などと記されているが、早く方針を変えたほうがよいのでは、などと余計なお節介をしたくなる。「面倒な雑草にサヨウナラ!メンテナンスフリーの透水性舗装が誕生!」とか、「お墓も地震対策を!」などといううたい文句を並べていると笑えてしまう。




Fわたしの霊魂観

 2001年11/17国立歴史民俗博物館第36回歴博フォーラム「民俗の変容 葬儀と墓の行方」の内容を中心にして、これまで死に支度について触れてきた。フォーラムで行われた討議の最後に「わたしの霊魂観」と題して、発表をされた方々が自らの生活に照らし合わせて、感想を述べている。多様な面をそれそれの視点で発表された専門の方々が、いざ自らの生活へトレースしてみると、意外と思われるような現実的な発言が相次いで、研究者自らが伝承とは乖離した自らの視点で葬儀や墓を考えているということがわかる。いや、自ら研究してきた過程で、自らの葬儀や墓のことを考えるようになったと捉えた方がよいだろうか。これを「共感する」ことで見出された答えと捉えるかどうかはともかくとして、考えるほどに従来の葬儀や墓の存在が変化しているといえるだろうか。

 ようするに、以前にも触れたように、葬儀や墓のことはいざ「死」という現実が身のまわりにやってこないとなかなか考えないということである。とくに親族の死ともなると、その一関係者という立場で葬儀を変えるわけにはいかない。あくまでも故人がどう考えていたかというところが尊重されるもので、それを確実にするために遺言というものがある。たとえ遺言がなく、故人の考えがとくになかったとしても、一関係者が「では葬儀は身内だけで、遺骨は散骨にしましょう」などと言うわけにはいかない。結局、自らの死後の用意をするくらいしか、自らの考えを示すところはないということである。そういう意味では、現代の人々は、生前から死後のことをいろいろ考えているのだろう、だからこそ葬儀も、墓も変化してきているということになる。

 その要因として、教育の変化や学歴社会化というものもあるだろう。討議の中で福澤昭司氏はこんなことを口にした。「お父さんは自分のやっている学問と自分の生き方とに矛盾を感じないのかといわれました。(娘に)おばあちゃんの家とか、おじいちゃんの家とか、どういうふうに考えているの、真顔で言われまして、何と答えたらいいかわからなくなってしまって困りました。」というものである。福澤氏は自らの、また妻の両親とも年寄りだけで暮らしているという。実はそうした背景を指摘する子どもたちけっこういるに違いない。もう10年以上前のことであるが、旧高遠町役場に千葉県から引っ越してきた青年がいた。彼は高遠の山奥に独り暮らしをしている祖母の家に住むためにやってきたのである。彼は千葉県の実家で両親にこう言ったという。「なんでおばあさんと一緒に暮らさないのか」と。父ができないと言うと、それなら「自分が一緒に暮らす」と独り祖母のところにやってきたのである。その祖母ももう亡くなられたと聞いたが、今も高遠に住む。このように親の家族観に対して批判する子どもたちも少なくないだろう。そしてそれを実行に移せるだけの若さもある。

 家族の分離生活は、地方におけるほどそれを認める傾向が強くなった。学歴が高いほどに子ども達が同居しない傾向は強い。こうしたフォーラムに参加する専門家は、みなそうした道を歩んできたともいえる。出世するほどに親からは離れた世界へとゆく。それは家から離れるわけで、墓からも離れてゆくことになる。こうした人々が、自ら葬儀や墓の変化の舞台を演出してきた一人ということになる。そんななか、関沢まゆみ氏が「わたしは学問と自分のことは分離していて、この問題には想像力を働かせないというか、自分がどうするかというのは今のところ何も決めていません」と答えた。参加者の中では最も若いということもあるのだろうが、さすがに死後の世界をどう考えるかなどというものは、歳を重ねるほどに膨らむわけで、若い人々が盛んに口にすることではないということにもなるのだろう。だからこそ、徐々に変化を見せていくのだろうが、このような人々のこころの持ちようは、こと葬儀と墓だけに限るものではなく、地方の暮らしのたくさんの部分に影響を与えてきていることも事実で、暮らしぶり、考え方の変化は徐々にではあるが、気がつくと大きく変化してきているのである。

 最後にこんなことに触れて、死に支度を終えたい。同討議のなかで武田正氏がこう述べている。「私にも二人の男の子がおりまして、二人の私の死に関する考え方はかなり違います。私と家内と二人ではどっちかが早く亡くなっても後の者が死ぬまでは骨はそのままどこかに置いて、合わせて、両方死んだ時に子どもから散骨してもらったらいいじゃないかという話しをしておったんですが、(中略)上の子どもの方は、やっぱり何か伝統的なかたちでしてあげたい。下の方の子どもは、両親がそういうのであれば、両親である私と家内が言っているとおりでいいんじゃないかと、長男の考え方と次男の考え方の間を行ったり来たりしているのが実情でございます」というものである。長男と次男という対比でゆくと、けっこうこんな会話が多いのではないだろうか。わたしも同じように次男、そして兄は家を継いで守っているから、武田氏の長男と同様である。それを「次男は気楽だから」と片付けられてしまうことはよくあったが、けっきょく親の面倒を見るということがいかに家とか墓といった対象に保守的にならざるを得ないかということなのだろうか。もちろん親の死や近親者の死に対峙するとともに、また考えは揺れ動いてゆくものだろう。果たして墓に近くなる10年後に、わたしはどう考えているだろう。
 

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