【 NO.27 】 2010. 9. 25


『松川町史』を読んで

これまでCosmos Factoryで綴ってきたものをここにまとめて掲載した。なお、まとめるに当たって若干修正を行っている。
1.モーテル

 「モーテル」の本来の意味は、例えばアメリカのような自動車や道路網が発達した国で、自動車で旅行する人を想定して設置された、セルフサービスを基本とする簡易なホテルで、日本で言う「ラブホテル」の意はない。
 日本で言う「モーテル」は、高速道路のインターチェンジ周辺や幹線道路沿いなどに立地し、当初からカップルでの利用を想定した簡易宿泊施設である。車社会到来以前には一般市街地や歓楽地の中にあった「連れ込み宿」に類似し、自動車で向かうことから初期は「モーテル」と呼ばれたが、都市部における風俗産業の著しい伸張により、以前は陰湿なイメージがあった「連れ込み宿」が大っぴらな「ラブホテル」に変貌したことから、郊外のモーテルも「ラブホテル」あるいは「ラブホ」などと呼ばれるようになった。性交目的の利用が想定されているため、構造は一般ホテルとは相当に異なる。
 
 以上は平成20年に発行された『松川町史』第1巻第5章「モーテル問題」の冒頭である。妻はこれを百科事典的記述と表現したが、確かに「モーテル」などという今時はあまり使われない言葉は説明でも加えなければ読み手は理解できないかもしれない。しかし、ではこの本、読者とは誰なのかということになる。この違和感でこの本を捉えていくと、こんな笑いものの記述はけっこう多い。そもそもモーテルなるものを市町村史誌で触れているのは稀なケースではないだろうか。

 わたしは民俗学には少しばかり興味もあってコメントもできるが、それ以外の部分はまったくの門外漢である。ただ現代という自らも暮らしていた時間だからある程度問題意識を持って記述された内容に対して共感という形で表すことができる。だからだろうか、この現代編とも言える第1巻が発行された際には、「この本はそこに生に生きた人々が関わって作られた」という印象を持っていた。ようは合併50年の歩みという主旨に沿っていたから、そこに携わった行政担当者が持ち寄った資料・原稿で構成されるという今までにないスタイルというもので、「そんな作り方もあるのだろう」という受け止め方であった。発行されてすでに2年ほど経過しているが、住んでいながらにして一度も目を通したこともなかった本であるが、自治体史誌とはいかなるものであるべきか、ということを改めて問う作品であると、最近になって気がついたしだいである。

 冒頭のモーテルの問題、そこには反対運動の歴史が綴られている。事実そこにかかわった方たちには思いも深いのだろうが、限られたスペースで自治体の特徴ある歴史を拾い上げていくとき、果たしてこの問題を10ページ近くに渡って記録する必要性はどこにあっただろう。ましてや「モーテル」とはという説明を綴る必要などとても感じられない。こういう問題はよそでは触れられないことなのだろうかと思い浮かべてみるが、そう考えると確かに松川らしい項目と言えなくもない。しかしその要因には何があったかと捉えると、中央自動車道が開通し、松川インターが開設されたという事実がこうした世情的問題の一つの要因にもあっただろう。ようは高度成長時代の社会環境問題の一視点として、他の問題などとリンクさせて記述するというのがより総合的な見方を与えてくれると思うのだがどうだろう。そう捉えるとこの本の随所に同じような指摘ができそうだ。そんな問題記述をいくつか拾ってみることにしよう。



2.○○とは

 「大辞泉によると、「林業」とは「森林を育成し保護して、主に木材を生産する産業。山菜の採取や木炭製造なども含む」とある。」は前回同様平成20年に発行された『松川町史』第1巻第4章第2節にある「木材需要の減退」という項の書き出しである。「完結した『松川町史』を読む@」で触れた第1巻第5章「モーテル問題」では引用した文中に「モーテルとは」という言葉はないが、項目の見出しに「モーテルとは」と掲げられていた。項目の見出しであるからこれは目次にもはっきり記されている。では他にもあるのかと目次を一覧して見ると、「平成の大合併とは」「下水道とは」「社会福祉とは」とあと三つ同じような項目が見られる。どれもそれほど難解な言葉ではなく、改めて「とは」と解説するからにはそれなりの意図があると考える。「平成の大合併とは」ではそもそもなぜ合併がこの時期に進められたのかという理由を記述する。その視線の先には国が推し進めた施策であるということをまずことわっておかなくてはならないというものがある。町史全般にわたって言えることは、受動的な記述であることは事実のようで、自らこの問題はどうであったのかという始まりではない。現代史についていまひとつ理解がたりないわたしなのだろうが、現代史とはいえ問題意識が無いはずはなく、今そのものが史実になりうるという視点に立てば、必ずしも受動的なものばかりではないと思うのだがどうだろう。

 歴史は受動的なものという始点に立つから「○○とは」という書き出しになりがちなのではないだろうか。実は「○○とは」という書き出しは本書に実に多い。当たり前のことでも改めてそう記述するところにはそれなりの意図があると思うが、どうもそれを感じとることはできない。冒頭の「林業とは」の解説が「木材需要の減退」という項に書き下されているところにもその意図をまったく解らないものにしている。むしろ本書の中で不用意に使われ、そして解説されている「○○とは」というもの、果たして必要なのかということになるだろう。これを無駄な記述とまでは言わないものの、解説的記述は本書全体に展開されることになる。

 例えばここで示した第1巻第4章第2節「木材需要の減退」は全国的動向に終始し、2ページ半にわたった内容に松川町に関わる記述は皆無である。また第1巻第4章第1節にある「ふるさと水と土保全事業」という項の内容は、その事業の説明をしただけで松川町において具体的にどういう実績があったかということは何も記述されていない。行政の補助事業パンフレットのような記述が連続するのである。さらに第1巻第4章第1節「梨」の項では、千葉県松戸市のことが延々と述べられた後、次のような記述がある。「鳥取県における二十世紀梨への思いは特別である。中核的な生産地である倉吉市には、わが国唯一の梨の展示施設「鳥取二十世紀梨記念館」がある。また倉吉市に隣接する湯梨浜町は、町名が二十世紀梨に由来するのみではなく、平成16年10月には「湯梨浜町二十世紀梨を大切にする条例」を制定している」というもの。なぜ松川町史なのによそのことばかり記述されているのかという疑問があちこちで浮かぶのである。もちろんそれを打ち消すように、こうした解説に付け加えて松川町のことがだらだらと綴られていくが、これでは紙面が不足するのは当然のことである。




3.郡境域の合併

 あらためて本文を読み込んでいくと、やはり「○○とは」という書き出しが目立つ。注釈を項目のそれぞれ末尾に記載したり、難解の言葉に対して説明をしようという意図はよく見られるが、そこまでして解説をしたいのなら、解説と本文は分離させ、例えば段組形式で解説はポイントを落とした形式で入れてもらった方が、解説を利用したい人、そうでない人、それぞれに利用し易かったはず。そもそも論文ではないため、引用に細かい注釈を入れるのはそぐわないわけであるが、これほど引用文が多出すると、その形式をよく議論するべきだったとは思うのだが、そもそも本書を刊行するにあたり刊行委員会なるものもなければ編さん委員会なるものも見当たらない。3巻構成の奥付を見ると、発行者は「松川町」であるものの、編集は各巻ごとそれぞれ異なる。このような市町村史誌は他に例を見ない。

 その意図は部外者であるわたしのような一町民にはまったく解らないことではあるが、果たして本書の刊行意図とは何だったのか。第1巻の書き出しがまずもって「町村合併の歩み」から始まるところからして、第1巻の副題にある「合併50年のあゆみ」がそもそもの意図だったという印象を受ける。それならば、合併から50年のみを扱った本をまとめれば良かったのだろうが、なぜ『松川町史』になったのか、疑問は消えない。

 ところで冒頭の合併のあゆみもかなりのページを割いているものの、この地域特有の合併の疑問を解いてはくれない。果たしてこの地域における「合併」の意識というものを理解しているのだろうか。わたしも含め郡境域と言う地域に暮らす者にとっては、その立地が故に複雑な思いをたくさん抱いてきた。そうした思いが合併を扱った記述には少なからず表面化するもの。もちろん合併にあたってはそれぞれの地域で思いがあるから、それをすべて網羅することはできないが、とはいえその思いを理解した上で省かれるのはしかたのないことである。しかしこれほどページを割いていながらにして、そこには地域間のそれぞれの思いは「共感」できるほど表現されていない。とくにその例をあげるなら上片桐地区の郡境を越えた合併への思いだろう。

 このことは別項でも触れたいと思っていることであるが、第1巻はそもそも松川町誕生50年のあゆみ的なもの。従って明治維新から終戦までの「近代」についての記述は基本的にはされていない。しかし、解説好きな本書では、明治期からの解説を入れないと理解に苦しむと思ったのか、項目によっては近代の部分を触れて現代の記述に入っている。したがってこの合併の経緯についても例えば上片桐村誕生の時代に遡っているものの、そこには郡を意識した記述は極めて乏しい。具体的に言えば『飯島町誌下巻』近現代編における「伊那郡と総称されていた南北に長い伊那谷は、上伊那郡と下伊那郡の二郡に分割され、新たに上伊那郡が誕生した」という記述で解るように、そもそも上下伊那に二分されそこに郡境域ができてまだ140年ほどのこと。しかしその140年において郡境意識を育んできたことは確か。実は郡境変更願いというものがこの分割された当時に出されている。当初(明治12年3月)は飯島・南向・片桐の三か村から出されたが、後の明治14年に三か村は分村してその思いが分化していく。明治16年には分村した飯島・田切・本郷・四徳村は郡境変更の動きから脱退、残った地域が引き続き郡境変更の願いを提出するのである。この郡境変更の表向きの理由は郡役所からの距離であった。「明治十七年の陳情に七久保村(現飯島町)は連署したが、飯島村は運動から離れ、本郷村や四徳が同調しなかったのも、この運動が失敗に終わった大きな理由の一つであったらしい」と『飯島町誌』では触れている。結局郡境変更の願いは叶わず、およそ100年の間上片桐村は上伊那郡として存在したのである。それほど長くはないものの、すでに上伊那郡の枠で暮らしていた人たちが、昭和の合併ではどう考えたのか、合併の流れは記述されてはいるものの、地域内でのさまざまな葛藤は何も書かれていない。遡ること100年前の郡境変更の願いすらどこにも記載されていないのである。この郡境変更の動きについては『中川村誌』でも触れられている。それら町村より合併問題にページを割いたにもかかわらず、『松川町史』にはまったく触れられていない部分である。そこに「操作された歴史」がなかっただろうか。



4.無駄な記述と欠落している記述

 解説が多く、それでいて地元の記事の少ない本書。嵩む紙面にさらに無駄な文面が続く。次の文は第2巻第2章第4節にある「新松川町図書館建設」に綴られたものである。現在の図書館は松川町資料館を2階に併設した建物。図書館と資料館は意図がまったく異なるものだろうから、当然本書ではそれぞれ別項目で扱っているものの、その建物の説明が延々と続くばかりか

 12月20日に建設計画のまとめ、設計業者選定(5社)を行い、年の明けた平成2年2月21日に設計コンペ審査会を行い、2年度に入った5月11日に設計監理業務入札の結果、鈴木建築設計事務所が落札した。6月29日に工事請負業者選定(17社)、7月13日に本体工事請負入札を行い、神稲・早野建設共同企業体が落札した。7月17日に建設に着手し、9月12日に安全祈願祭が行われた。着工から祈願祭まで間があるのは、図書館・資料館の用地となる福祉センター体育館の解体・用地造成工事があったからである。翌平成3年3月25日に上棟式を行い、5月10日に本体工事が竣工、13日の竣工検査を経て29日に竣工式が挙行された。
 (中略) 建築構造は、鉄筋コンクリート造2階建(一部、地下3階)で、建築建面積1135・6平方b、建築延面積2186・8平方bである。
 図書館建設に関わる総事業費(建屋は資料館も含む)は5億1242万5000円、一股備品関係費2214万5000円で、視聴覚備品関係費1287万5000円、設計監理費1390万5000円で、財源はまちづくり事業(起債)3億5800万円、一般財源1億5442万5000円である。

という記述は図書館にも資料館にもまったく同じ文面で掲載されている。施設のパンフレットと勘違いしたような書き振りには唖然とする。もちろんこうした書き振りは行政が行ってきた事業の履歴すべてにおいて見受けられる。

 さらに資料館の説明内容を紐解けば

 資料館の建設にあたっての基本的な姿勢は、町の歴史を知る上で貴重なものや、時代とともに失われつつある何気ない生活用具等の収蔵保存は勿論のこと、地域の生い立ちやその歩みが平易に理解できるような展示を行うことであった。それには専門的な説明は排し、平易な解説と写真や図表を多用したグラフィック展示、模型類の多用、そして映像展示に力を入れることであり、「小学生から大人まで、見て楽しめる資料館」の創造が主眼とされた。そのため展示工事(映像展示も含む)にはおよそ1億2000万円という多額な費用を要したが、その結果、町村資料館としては近隣に例のない「カラフルで、見て、聞いて、楽しい資料館」が創りあげられた。

とその建設がどれほど意味のあるものだったかと賛辞を送るばかり。「誰でも気軽に訪れることのできる町の資料館として当初からの位置付けがあり、松川町の誇る一面であった」と言うが、この資料館に人影を見ることは稀だ。すでに建設から20年近い歳月を送っているが、ちまたでよく言われるようなハコモノで終わっているのではないだろうか。その賛辞ばかり並べられる本書の信憑性は疑われるばかり。




5.無関係かつ不適切な記述

 松川の町史なのに松川の記述が少ない、そう思わせる具体的な部分が数少ない執筆依頼分にも見られる。約2300ページに及ぶ町史において、明確に外部に執筆依頼したのは第2巻自然編のすべてと、第2巻教育編の「松川高校」と同「松川町の社会教育実践」、そして第3巻歴史編の「古代」と民俗の中の「方言」のみである(転載部分を除く)。自然編以外では4名のみの外部執筆であるが、第1巻編集後記には「郵便事業については宮沢昭十四氏の執筆が大部分であり、編集方針から一部省略したり個人名等を割愛した部分もあるが、これについてはご容赦願いたい」とあり、必ずしもこの4名だけではないのではないかという予測ができる。しかしこの郵便事業の部分についても明確に宮沢氏が「執筆した」とはしていない。なんとも不思議な言い回しであるとともに、このような無責任なことが編集後記に書かれていることそのものが不可解である。

 さて、数少ない明確に執筆依頼した部分、とくに「方言」にあってはとても『松川町史』に載せられるような内容ではない。そもそも「松川町の方言」と始まる項は章でも節でもない。民俗編という大枠から見れば章にあたり、そこに展開される9項目は節とも言えるのだろうが、まったく表記に統一性がない。そして9項目の最初に展開されるのが「下伊那方言研究小史」というもの。町民にとっては、研究の歴史などまったく必要ではないだろう。それも下伊那郡といっており、松川とは直接的には関係がないのである。ついで2項目には「方言とは」という松川町史特有の「○○とは」が始まる。あっけにとられるのは3項目に「柳田國男の「方言周圏論」」、4項目に「東條操の「方言区画論」」と素人にはまったく意味不明な言葉が続く。そしてその内容はまったく町史といういわゆる住民に還元すべく書物にはあってはならないようなもので、ここまで4項はそっくり削って良いだろう。ようやく5項目に「長野県の方言区画」というものが登場し、松川町の方言の位置づけという面で参考にはなるのだろう。次いで「伊那谷の方言区画」と進み、しだいに松川町に接近してくる。しかし、「筆者」はと始まる私論は果たして正しいのだろうかと頭を傾げる。そもそも自治体史にあって「筆者は」という表現は不適切である。

 この方言を書いた方、自治体史はどういうものかということを理解していないし、方言の地域分割という面でも誤認している。それは延々と方言研究史を述べたあたりから間違いをさらけ出してしまっている。研究史で利用した文献の発行された時代は、まだ松川町前史のもの。ようは「下伊那」というくくりをするが、この松川町は上伊那郡上片桐村が越郡合併している。研究史で利用した文献の時代には下伊那ではなかった部分があったわけで、必ずしもその文献で言う「下伊那」にはすべては該当しないのである。歴史的背景をよく理解した上で記述すれば、上下伊那という地域区画を安易には使えなかったはずである。

 「方言」のひどさは極めているが、記述上の問題は他にもある。自然編の蝶類を執筆された方は「はじめに」の中で「1988年〜1991年には、松川中央小学校に勤務し、受け持った児童や昆虫クラブ員と共に・・・」と記述している。さらに「おわりに」の中でもう一度「1988年〜1991年の4年間、松川中央小学校に勤務してみて感じたことは・・・」と記述しており、個人の文であるという表現は自治体史と言う観点から不適切だろう。

 両者ともに個人の論文を書いているわけではないのだから、本文中に「筆者は」とか「勤務してみて」などという私語を使うことは問題外である。ここから解ることは執筆方針や執筆要領などが定められていなかったということがうかがわれるとともに、もしそれがないとしても事務局は表記の統一をすることは当然のことだろう。




6.空間的区別の曖昧さと無関係な引用

 読めば読むほどに呆気にとられる部分が目立ち、この本を読む時間を違うところに使った方が良いのかもしれない。解説は別の専門書、地元のことだけ参考程度に引く、その程度の本ではないだろうか。

 中近世といった部分においても文献利用が乏しい印象を受ける。わたしには専門外の部分なのであまり詳しく指摘することもできないが、やはりこの地域のことについてもあまり触れていない印象が強い。引用されている文献も地域のものより全国的に知られたものがけっこう採用されている。歴史編はけして文量的に多くもないのに、よそのことを書いているということは、いかに『松川町史』になっていないかがよく解る。さらに第4章近世に至ると、もはや記述している内容の時代がはっきりとしなくなる。そんな第4章の問題点をいくつか拾ってみよう。

 第7節に「社会制度と農民」というものがある。「農民の一年と労苦」の記述は歴史の域を逸しているような書きぶりである。「四月に入ると朝から晩まで男たちが田畑に打ち下ろす鍬は一層深くなる。(中略)この頃になると、まだ青い麦を炒って臼で挽いた「青ざし」というものを作って食うのが楽しみであったという地方もあった(この地方では余り聞かないが)」という文の文末のカッコはわたしが入れたものではない。もともと本文に記載されているもの。「あったという地方もあった」という表現も紛らわしいが、「地方」とはどこなのかよく解らない。そして「この地方ではあまり聞かない」と言っているから、この場合の「地方」は松川町のことなのだろうか。それとももっと広い下伊那とか伊那谷というものなのだろうか。そもそも「この地方ではあまり聞かない」ことを掲載して良いのだろうか。ますます曖昧で不明瞭なものとなっていく。よそで言われていることを地域がとくに限定されている本で記載することははっきり言って不適切と言えよう。同じことは「田植えのほかにこの頃は麦刈り、水田の一番草とり、地方によっては養蚕もあった」という文にも現われていて、この場合の「地方」の使い方は正しくないだろう。

 このように「地方」という空間が読者には限定できない上に、それを煽るように不思議なものが掲載されている。同じ第7節5項「住まい」には「佐久郡の事例」という見出しがある。図も含め2ページに渡る内容に、松川との直接的関係はまったくない。続く「新井村の様子」に関連付けての項目なのかと思ったがそうでもない。文中に「一般農民の家は二○坪未満の小規模家屋が大部分であった」という具合に「一般農民」という単語がよく使われている。地形的制約によっても家屋は変わってくるし、さまざまな要因がプラスされているもの。したがってここでいう「一般農民」という定義もどうも解らなくなる。佐久の事例について「伊那と佐久では地域の違いが大きいかもしれないが、参考のため本書の解説を参考にしてみる」と筆者自ら怪しい「かも」しれないと思っているような節すらある。ここでいう「本書」とは県立歴史館が行った企画展の冊子のようである。よその事例を利用して「松川」の歴史を編もうという大胆な発想が、問題をたくさん積み上げてしまったという感は否めない。空間的明確さに欠ける、混ぜ合わせの記述がこんなところに垣間見える。




7.時間的区別の曖昧さ

 第7節「社会制度と農民」の冒頭にはこんなことも書かれている。「農村には「お館・被官」という制度があった。これは隷属農民として古くから存在したもので、「被官」・「門の者」などと呼ばれた。いわゆる「おかど」で、主家を離れて住み、主家に隷属する者で、地域によっては後世までこれが残った」というものである。引続き「このほか穢多・非人・ささらがある」と階級制度に触れたものであるが、前者のお館被官の説明は、なんともよく解らない説明であるとともに、ここでは「地域」という使い方をしている。「隷属農民として・・・」以下は被官を説明したものであって、お館被官制度と言いながらお館とは何かなど説明が不足している。松川町においてもこの関係があった地域があると言われているが、この程度の不明瞭な説明を掲載するくらいなら、そもそも削除しても良いのではないだろうか(歴史認識の上では本当のところは扱って欲しいものであるが、こんな意味不明な内容なら必要ない)。

 前項も触れた同節の「農民の一年と労苦」では、「いつの時代においても上層階級は別として、中層階級以下の農民生活は実に貧困でみじめなものであった」と農民はまともな暮らしなどできなかったようなことが延々と記述されている。現在の価値判断からいけば、確かにそう捉えられるかもしれないが、果たして近世の農民は不幸だったのかといえば、必ずしもそうではなかったはず。こういう記述そのものが傲慢とも言えないか。そして「農民が昼間、おてんとう様の下で文字の読み書きを習うなどということは・・・」というフレーズを読んでいて思わず苦笑してしまう。

 前項で「記述している内容の時代がはっきりとしなくなる」ということを述べた。第7節3項の「住まい」の中に「生田地区の味噌の事例(昭和40年代)」という表がある。本文にはこうある。「昭和40年代の生田地区における味噌造りの記録があるが、基本的には江戸時代と大きな差はないと思われる」というもので、ちなみにここでは「地区」という使い方をしている。「地域」「地方」「地区」などが混在している文に迷走してしまう。もちろんこの基本的用法についての説明はない。そして最も問題だと思われるのは、この表と文が書かれているのは「現代」の部分ではなく、「近世」の部分であるということ。近世を扱っているのに、その資料として近代や現代のデータを使っているのはここだけではない。前回触れたように空間的な捉え方もまったく区別が付かないと同時に、時間的区別も区別がつかないような記述があちこちに見受けられる。この筆者にとって時代も位置もそれほど大差なく、一つの基本的理念に則って記述していけば良いということなのだろうか。それならば「松川」を冠した本は必要ないわけであって、このような捉え方をしてしまう人が執筆していることはとても問題だと言えるだろう。




8.「三六災害」にみる不明瞭な記述

 5.において触れたが、本書は自然編を除くと明確に示された執筆者は4名、そして残りの文責はすべて事務局にあるという。事務局といっても事務担当は1名と思われるところから推察すると、表記がすべて統一されているはずなのであるが、読んでいると必ずしも同じ人が書いたとは思えないほど文体が異なる部分もある。とくに第1巻の現代編とも言える「50年のあゆみ」は、ばらつきが目立つ。本を編むという体制が取れていたとはとても考えられないような成果なのである。

 伊那谷では「三六災害」と言われて多くの人に認識されている災害が起こっている。昭和36年の梅雨のころにあった災害であるが、おそらくこの1世紀においては最大級のものだったという認識は伊那谷中部のほとんどの人が持っているだろう。その中でも大鹿村大西山の崩落は最も大きかった被災として知られているが、隣接している松川町においても7名の死者を出している。もちろんこのことについて第1巻第3章第3節「災害の記録」の冒頭で触れられている。その被災の記録を生々しく伝えるためなのだろうか、日時を追って逐次その経過を記録しているのであるが、これもまた既存資料をふんだんに転用したと思われる節が強い。そして読者はその内容を簡潔に理解することはできない。309ページに掲載された「日雨量調書」は、6月23日から7月6日にかけた日雨量を日ごとに近隣の観測所ごと並べている。いっぽうしばらく綴った後の314ページには、6月27日から7月5日にいたる飯田測候所と生田(東中学校)、大島(松川中学校)の日雨量が並べられている。離れたページにほぼ同じ主旨の表がデータとして掲載されているわけで、いかに綴られた内容がまとめられたものではないかが解る。この間の様子を刻々と記していくわけであるが、重複はもちろんのこと、最終的にどうなったのかという姿がどうも捉えられない。「被災世帯の移住」に書かれた「10月21日現在、松川町農業委員会を通じ、松川町へ移住のため住宅を建てる農地潰廃の申請をした戸数は、大鹿村5戸、高森町1戸、中川村1戸、豊丘村1戸の計8戸である。なおこの他に最も大きな被害を受けた大鹿村より7戸、中川村より2戸が松川町へ移住の申し出があり、移住者の数は今後も増加が見込まれた」は、現在進行形の文であって、結果的に移住がどうだったのかという答えは、長々綴られたこの記録の中には登場してこない。

 刻々と変化していった被災の状況ならともかく、その後の復旧状況も時を追っており、結論がよく見えないのが実情だ。例えば「進む災害復旧」では「36年度施工として発注されたものは次のとおりである(37年2月段階)」という記述があり、引き続き「37年度の復旧計画」「空前の37年度予算」「1年後の復旧状況と今後」「昭和38年度以降の復旧状況」と小見出しを追っていくだけでも現在進行形の記録が続く。もちろん小見出しの表示そのものも統一のなさ(36年度としたり昭和38年度としたり)が明瞭だ。その中身については意図がはっきりしていればまだ救いようがあるものの、あまりに自治体史としてはお粗末過ぎて触れられない。

 わたしがこの町に暮らしてきて解ったことは、この町は「移住者」の町という顔を持つ。果樹園が多く、専業農家もまだ見受けられる農業地域ではあるものの、そうした空間とは別に新規の住宅地、それも古い時代の住宅地が町内に何箇所か存在する。ここに住み着いた人々は、こうした災害にかかわったばかりではなく、さまざまな理由で永住の地を求めてきた。また、農地をわずかながら所有している人たちの中にも、戦後あるいは戦前に住み着いた人たちがいたりして、そうした中には、いわゆる山間地域から移住した人たちも少なくない。もちろん前述したように三六災害やその他の災害を契機に移住した人たちもいて、災害と移住、あるいは戦後と移住といった視点で捉えると、この地域はひとつの特徴を持っていると思われる。そういう意味でも、この記録の中に「移住」を見たものの、その実像がはっきりしないことは大変残念なことである。本書の中に、他にこのことについて触れた項はない。




9.現代分野の突出

 これまでに無駄な記述があるいっぽうで、触れられていないものもあるということを書いた。編纂するにあたって、各分野の文量などの割り当てはされていなかったのかという初歩的な問題が浮かぶ。第1巻の冒頭の例言にこんな釈明がされている。「当初、第六章として「松川町の教育」を予定していたが、大幅な紙数となり、頁数の上から別巻にて取扱うこととした」というもの。この第1巻は「現代」を扱ったものであって、いわゆる市町村史誌によるところの「現代編」にあたる。ところがこの本、「現代編」という副題ではなく「合併50年のあゆみ」となっている。その主旨は合併後の町を扱おうとしたものであって、歴史上では高度成長期から現在までという僅かな期間である。そのわずかな期間ですら3巻構成の1冊の中に納まらなかったわけである。溢れた「教育」は第2巻の半分以上を占めて別冊という形で発行された。第2巻はこの「教育」と「自然の2分冊であるが、その体裁は他の2巻と異なり、装丁も違えば本そのものの寸法も寸足らずといったおかしなものとなった。不思議な本を作ったものという印象を受けるが、何よりも3巻構成でありながら、合併後の時代が全編の半数以上を占めるという異常さは、他に例をみないわけである。



 ここで他の市町村史誌はどうなのかということも含めてその比較を行ってみる。円グラフは長野市・松本市といった県内の主要な市も含めた24市町村史誌の集計をしたものである。1976〜1986年にかけて発行された「箕輪町誌」から2005年に発行された「浅科村史」までをまとめているが、長野市のように16巻で構成された大規模なものから浅科村のように1巻でまとめられたものまでさまざまであるからそれぞれに特徴がある。とくに長野市や松本市といったところは本編とは別に旧市町村編といったものもあって、それらはこのグラフでは「資料」の部分に入れさせてもらった。資料については長野市や松本市といった大規模なものを除けばおおかたは年表を扱ったものであって、本来は各分野に割り振っても良いものなのだろうが、そこまで詳細な確認はしていないため「資料」として一括まとめさせてもらった。中には「天龍村誌」のように特質事項として「熊谷家伝記」を別掲載しているものもあり、それらもここでは「資料」の中に加算させてもらっている。いずれにしても特質のあるものをそれぞれの市町村でまとめられており、一概に比較をもってどうのという指摘にはならないが、そうした特別な事情を汲んだとしても、「松川町史」は異常と思える。

 円グラフではっきり解るのは「近現代」の60%という数値の突出である。まとめるにあたり、「原始古代中世」「近世」「近現代」「民俗」「自然」といった具合に、歴史分野はすこし時代をまとめさせてもらった。本によっては原始古代が統合されていたり、近現代が分離していないものもあるため、明確に分離できそうな分野を大枠にさせてもらった。そういう意味では近現代も混ざっているケースが多いわけであるが、松川町の60%の中に近代の記述は説明上限定されている。ほとんどないと言っても差し支えないかもしれない。ようは記述上明治まで遡らないと説明がつかないものは近代部分が触れられてはいるが、それは現代を記述する上での必要不可欠なものであって、そもそも「近代」にあたると言うには乏しい内容である。ようは現代だけで60%を占めているということなのである。ちなみに記述の中から明治から戦争までの間について触れた部分だけを拾ってみると130ページ、率にして9.5パーセントほどである。3巻構成の中で、本来は第1巻に納まっていたのであろう「教育」がはみ出してしまって、そのままページ数が嵩むでもなく、3巻で納まってしまったということは、別に掲載すべきものが削られたのか、それとも1、2、3と発行されていくたびに、ある原稿をとりあえず掲載したという無計画の証しだったのか。いずれにしてもできてしまったらこんなに異常な数値が現われた、としか捉えようがないだろう。




10.欠落している分野

 近現代の突出は勿論だが、そのほかの部分も果たして均等かといえばそうではない。前項と同じようにここに示したグラフは、一つは2000年以降にかけて発行されたものを並べたもの(表-1)。もう一つは「松川町史」同様に3巻構成で編まれたものを並べた(表-2)。例えば3巻構成の場合は3分割する枠をどう配分するかというのが編纂の方向性となる。最近年発行されたものとしては隣の「中川村誌」が参考になるだろう。近世までの歴史編で1巻、自然編で1巻、近現代と民俗で1巻というスタイルはごくふつうに考えられるスタイルといえる。表-1には発行年代を示した。古い時代のものは比較的「自然」分野が少ないが、近年のものはそれが比率を上げてくる。人々の自然に対する意識が高まっているということもあるし、写真などをふんだんに利用した本は、親しみのあるものになる。そういう意味では中川のものはもっともオーソドックスなスタイルといえる。均等に割り振れば「近現代」は3割程度と言うのが妥当な線とも言えるのだろう。もちろん市町村によって特徴があるわけだが、長野県内のように山を有し、農村地帯がほとんどという環境からいけば、「自然」が紙数を増やすのも当然のことといえよう。表-2の2000年以降にかけて発行されたものもおおかた2割以上を「自然」で割いている。「松川町史」の場合、自然編は専門の方々に執筆を依頼した。にもかかわらず他町村にくらべれば半分程度でできあがった理由を、編集後記に読むことができる。「執筆を担当された先生の都合であろうか、原稿を頂けなかった部分もあり、昆虫等一部が欠落していることは残念である」と言うのだ。この他人事のような編集後記をみると、この自然編は専門の方たちに丸投げしたのではないかという印象を受ける。どなたがその責を追ったのかまったく本書には触れられていないが、そもそも自然ともなれば現状をよく調査した上でなければ編集などできるはずもない。それでもできあがったということは、いかに担当された先生方が苦労されたかということが予想される。よほど予算がなかったのか、期間がなかったのか、いずれの理由もこの結果を招いた要因だろう。

 表-1


 表-2


 話によれば、発行期日を過ぎたのに本ができないという苦情が多かったともいう。最初に発行された第1巻ですら、「資料調査・原稿執筆が大幅に遅れ、結果的に発刊を1年6ケ月も延ばしてしまった」と言う言い訳を編集後記で述べている。おそらく資料がたくさんあったであろう現代の部分に手間をかけた分、残りの2冊の構想など飛んでしまったような印象さえ受ける。

 さてそれ以外にも触れておこう。前述しているように近代の欠落は歴然としている。第3巻編集後記において「近代以降については、第一巻に合併以前の旧村のあゆみの概要について記している点と、同じく第一巻に示した項目ごとに近代以降の変遷も記しているため、本書では近代以降の記述は省いている」と記述している。これも近代を省いてしまった言い訳のように聞こえるが、旧村という行政の視点はそれでもよいかも知れないが、そこには当てはまらない多くの事柄が欠落してしまうことになる。その最たるものは「戦争」のことだろう。「松川町史」には戦争のことはまったく触れられていない。歴史上から省かれてしまって良いものとはとても思わない。それに関連した当時の人々の暮らしや思いもくみ取ることはできない。例えば移民のこと、そして以前にも触れた移住者などによる開拓のこと、いずれも戦前戦後の大きな事象と言える。合併後の姿を追ってしまったら大事な部分はそっくり抜け落ちてしまうものが多々あるのである。

 近代とともに抜け落ちている分野が「民俗」と言えるだろう。これまで松川の民俗を扱ったものはほとんど出版されていない。確かに旧村誌に若干見られるが、伊那谷の中部という東西の民俗の接点でもあったこの地域が、それをまったく重要視していないことも残念でならない。データ上は2%という紙数を数えているが、5.で触れたように「方言」は松川町のことにはあまり触れていないし、それ以外のものも昭和40年代に公民館報に掲載されたものの転載である。40年も前のものを転載して「松川町史」とは呆気にとられる。ようは「民俗」についても欠落しているといって差し支えない。こうやって見てくると調査をしないと書けないものは「省いた」ということが言える。この本を発行して「少ない予算でできた」と誇っていたらそれこそ笑いものである。




11.言い訳が埋め尽くされた編集後記

 最初に発行された第1巻が1年半遅れだと言い訳をした。確かに期日を守れないということは町民に対して説明がつかない。しかし、平成17年に立ち上げた町史編纂事業であって、翌年の50周記念に合わせて第1巻を発行するなどというものは、そもそもが無謀というもの。どういう発行計画を立てたか定かではないが、ありがちな「遅れ」とは訳が違う。もともとこのような無謀な計画で公な本が出せると思っている方も認識が甘い。調査報告程度の本ではない。松川町の顔となるべく内容の精査もしなくてはならないし、繰返して述べてきたように「何を扱うか」という項目の検討をしなくては3巻をトータルなものとして作ることはできない。第1巻からして言い訳を綴った編集後記。この3巻どれも「編集後記」を読めば本の出来栄えが解ってしまう。というか編集後記がもっともユニークであるとわたしは思う。少し編集後記の文言を紹介してみよう。

第1巻
1.当初、専門委員に分担執筆を依頼する計画であったが、委員から「思い出の町史になってはいけない」との配慮から、執筆は役場現役職員が分担し、専門委員はそれを校閲し、素稿の加除・修正、助言等を行うこととされた。しかし、役場各課は多くの通常業務を抱えており、過去の事業について資料の上から調査・執筆することは不可能に近く、実際に完全に近い原稿を提出してくれた係は数名であった。

2.当初の計画では第六章として「松川町の教育」を掲載する予定であったが、学校教育面においても、松川町発足以降の50年の歩みだけを記しても、その前段階からの関連の上から不都合があり、ある程度明治の教育から記述する必要性が生じた・・・

第2巻
3.学校教育の項の松川高校設立については、当時その職にあたられた北原衛氏に執筆を依頼した。膨大な原稿と資料を用意されたが、組合立関係の規約等の資料や、特に県立移管後の松川高校の事項については紙数の関係から省略させていただいた。

4.(自然編について)記述法も特に制約を設けずに、自由に書いていただいたため、項目ごとに記述の不統一はあるが、それはさしたたることではないと思っている。
 ただ、執筆を担当された先生の都合であろうか、原稿を頂けなかった部分もあり、昆虫等一部が欠落していることは残念である。かなり期間を延長したが印刷に踏み切らなければならない事情もあり、不十分さは免れない。
 計画から執筆まで期間が短く、調査期間がほとんど取れないというなか、また特に調査費等もないなか、執筆を快諾された先生方はご自身の研究と学績をもとに献身的に原稿を執筆され、事務局の思惑通りの素晴らしい原稿が頂けたことは幸いであった。

第3巻
5.本書は『大島村誌』・『上片桐村誌』・『生田村誌』をベースとし、史料についてはなるべく詳細な解説を加え、読みやすくしている。また近世以前の章は新たに書き下ろしている。

6.本書はなるべく写真や図表を多く取り入れ、難解な記述は避け、読みやすく見やすくするよう努めた。第一章・原始においては戦後の考古学研究の成果を踏まえ町の代表的な遺跡を紹介しているが、地区によって調査の粗密があるのはやむを得ない。第二章・古代においては日本史的な見地から松川町における古墳・奈良・平安時代における動きの解説をしている。第三章・中世は信濃武士片切氏とその庶流、伊那谷を代表する大島城について、関連する史料をほとんど掲載し解説を加えた。冗長な記述となっているが、それだけ地域の皆さんの関心がある事項であるためである。第四章・近世は旧村誌をベースに、資料性というよりは当時の支配関係・農民の暮らしをイメージできるような記述に勤めた。史料によっては長々と原文を記さなければならないものもあるが、できる限り原文そのままの引用は避け、読み下してなるべく解りやすくしている。基本的な文献史料の多くは旧村誌に原文が記されているので、史料として利用される場合はそちらを参照していただきたい。

7.「松川町の神社・寺院」の項では、主に神社・寺院の来歴について記述している。個々に所蔵される文化財や諸行事、祭礼の様子などは調査が進んでいないため詳述はできていない。

8.本巻は一般的に見られる町村史(誌)とは趣を異にしている。それは一言でいえば「主人公である町の皆さんが、読みやすく解りやすいもの」、「楽しい書籍」をイメージしたためである。この思いが思いだけに終始し、それを具体的に表現することはなかなか叶わなかったが、写真や図表をより多く取り入れたことにより、まずそれを見ていただき、興味ある部分に目を通していただくことができれば、目的の一つは叶えられたものと思っている。こうした記録はそうそうまとめる機会はないものであるが、素晴らしい旧村誌の続巻、解説的なものとして活用されんことを願う次第である。

 以上は編集後記を主に巻頭にある例言の中にあるものも加えて取り上げてみた。当初はこうだったが、進めるに当たり変更したという言い回しのものが目立つ。一応計画というものはあったのかもしれないが、どういうことかそれが変わってしまってこのような本ができてしまった。1.にあるように役場の職員に執筆を担当させようとしたようだし、文面から読み取ると実際原稿を出してもらった人もいる様子。しかし、誰がどの部分を担当したかということはまったく詳細にされていない。市町村史誌なるものがこのような認識の上に作られようとしたことも驚きである。また、2.によればそもそも近代はここでは扱わない予定だったが、「その前段階からの関連の上から」明治期から記述したというような説明を見ると、結果的に50年の歩みに近代が若干触れられたものの、近代はどうするつもりだったのか。第3巻で扱う予定だったのか。できてしまったら言い訳で処理するという最悪の結果を招いている印象を強く受ける。3.には「紙数の関係で省略」という言葉が見える。ここにすべて示さなかったが、「省略」とか「重複」という単語が何度も登場する。4.では「調査費等もないなか」と述べているように、快諾されたかもしれないが、そのような予算措置でまともなことができるはずもないし、そもそも個人の研究に依存して自治体の歴史を編もうなどとはどういうことなのか。

 5.6.8.に至ってはこの本はかつて発行された旧村誌の補完的な読み物として作ったという印象を受ける。「旧村誌の続巻、解説的なものとして活用」とは何たることかと思う。それらはもう半世紀ほど前に編纂されたものである。体裁は新しいものの、中身は半世紀前と変わらない、それを編集後記で記しているわけで、このような編集後記をよくも平気で書いたものと驚く。7.において「調査が進んでいないため」と記しているのは当たり前のことで、ようは新たなデータをまったく取り入れずに本を作ってしまおうという町民を愚弄した姿勢が見える。それでいてその言い訳に終始する編集後記はすべてを物語っている。



12.住民には見えなかった町史編纂

 もう10年近く前のことである。聞き書きをしている地元の会に参加したおり、その会を引っ張っておられた方にこんなことを言ったことがあった。「松川にはまだ町史がない。きっといつか町史編纂が始まれば、みなさんの力が必要になるだろう」と。聞き書きしている内容が、「民俗」という分野にかなり接近したものであっからそう思ったわたし。事実町史を作るという話が後に聞こえてきたものの、そのようなこともなく、なんとも情けない本を町民は目にすることになった。

 近年発行された市町村史誌では地域住民の手をかなり借りているものがある。その主旨は住民に身近な歴史であって欲しいし、また関心を持って欲しいというものだ。この地に暮らしていない人たちが捉える歴史は、身近なものから遠いものとなる可能性もある。もちろん中に居る人たちには見えない視点を与えてくれる効果も大きく、地域住民だけで編纂するのも危険は伴う。しかし、そうした問題も組織を充実していれば解消できること。分野の違うものを一つの目標に向けてまとめていくからには、それをつなぐ事務局も大切となる。『松川町史』編纂が住民に親しまれる事業だったかといえば、これほど住民からかけ離れたところで編纂された市町村史誌は近年では稀だ。期間が短いという状況がそうさせたのだろうが、このあたりの考え方が住民参加という点から大きく逸れていたということになる。

 かつて飯田市誌編纂事業は、本を作ることだけで終わりにしてはいけないといって、見直しをして姿を変えた。これも地域住民がどうかかわっていくかという大義をかざしてのものだったのだろうが、いまやその経緯は忘れられ、その大義を評価する声は高い。しかし、あのときの編纂がどんなものだったかといえば、個人的には思うところが大きく今も好感は持てない。例えば松本市史では室長を務められていた方が、どの分野の会議にも必ず出席して、事務局としての意見を述べられていた。同じことは中川村誌でも見られたわけで、事務局とはどうあるべきかという姿をそこに見た覚えがある。それにくらべれば中止された飯田市誌の事務局は、まったく事務局としての仕事をせずに、意見を交わすこともほとんどないままそこに関わっていた人たちに事業中止を知らせた。大義は大義として、しかし小さな地域がどうそれらに関わっていくかということは、そのプロセスもとても大事なことだと思う。税金で事業を進めるからには、住民の多くに知ってもらい、そして関わってもらうのは最も重要なこと。そういう視点に立てば松川町のプロセスは住民無視と確実に言える。資料館の事業評価を町は自らしているが、そこにここ数年は町史編纂を重点的に行ったため、企画展などに力を注げなかったというやはり言い訳が掲載されていた。町史を編纂しているという事実を考えれば、むしろ逆であってだからこそ編纂に関わった企画展示をしていくというのが普通の考え方である。しかしここではそうではなかった。もちろん人手不足ということもあるのだろうが、すべてがお粗末、あるいは認識不足と指摘されて仕方のないこと。そもそもこのような町史を認めた町の理事者たち、また発行してしまった町のトップの意見はいかなるものなのか。担当者の独善的な編纂が露になったが、それ以上にこれを統括していた事務局のトップや教育長、町長、すべてにその責任がある。

 「中川村誌」の下巻は近現代と民俗を扱った一冊。最後に関係者が記されているが、執筆者は27人中1人を除いてすべて中川村関係者(住民と出身者)である。あとがきに触れられているが、民俗部会が行った編集会議は68回を数える。「民俗」などというものを知らなかった人たちが、会議を重ねる毎に理解を深め、形ばかりかもしれないが本として発行された。部門監修者を招いて勉強会もした。出された原稿を何度も直したことだろう。しかし、いずれにしても地元の人たちが学び、成果をあげられたことはとても大きなことだった。会議を何度もしたのだから時間も、またその報酬(それほど高いものではない)もかかっているだろう。しかし、みながこの事業に関わって納得のできるものを作ったはず。その後村民を交えて村誌の勉強会なるものも開いてきた。住民に対するこの事業のあり方、姿勢は松川町のものとは比べものにならない。松川町においては。今後発行されたものをどう利用していくかという課題が残るが、わたしには利用する「価値があるのか」という危惧が消えない。
 

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