【 NO.21 】 2001.12.16

1.箒草

 箒は、民家では屋内用と、屋外の庭用を兼用することはないでしょう。形状によって、長柄箒、小箒、手箒などあり、材料では、藁箒、羽箒、竹箒、草箒、棕櫚箒などがあります。電気掃除機の登場までは、こうした手箒が掃除の道具だったわけです。とくに畳が一般的であった時代には、屋内用の箒というものは必ずあったはずです。ところが、電気掃除機の登場とともに、屋内用の箒は姿を消してきて、最近の家庭では屋内用の箒がない家が一般的になってしまったように思います。これは畳がフローリング変わったこともあるでしょうが、それ以上に電気掃除機の普及が要因といえるでしょう。

 かつてどこの家にも一本はあった屋内用の箒は、大変都合のよいものだったはずです。最近のオフィスなんかは、そこらのホームセンターで売っているようなフロア―用のはけのような道具を使って掃除をしますが、あれは都合が悪いものです。悪いとわかっていても箒を使わないのがこのごろで、なぜ箒が姿を消してしまったのか不思議でしかたないわけです。確かにほこりは立つかもしれませんが、それは掃きかたであって、やはり人それぞれによって微妙な差が出る、そしてはき方にも人間性がでる箒が一番日本人に合っているように思います。よく「部屋を丸く掃く」なんていう言葉がありましたが、モップ風の道具を使っても「掃く」というように、明らかに箒で「掃く」イメージが、箒を使わなくても残っているのに、少しばかり安堵感を覚えるわけです。

 屋内で箒を使わなくなったせいか、屋外用の箒の姿もめっきり減りました。子どものころ身近であった箒に、竹箒があったと思います。やはり庭掃除には必需品だったわけです。そして箒の掃き方を先生に注意されることがしきりにあったことを、誰もが覚えているはずです。竹箒といえば「秋」、落ち葉を掃くためによく使われていました。学校では竹箒は今でもありますが、最近の家庭にはない家が多いようです。

 箒といえばミゴ箒が印象にあります。昭和30年から40年ころ、伊那谷の農家では内職としてミゴ抜きをしたものです。農家の女たちの冬の内職にされたもので、数がまとまったところで箒を作る業者が買い集めていったものです。私の印象としては、老婆の仕事というイメージがあって、冬場の日当たりのよい縁側でミゴ抜きをしている姿があちこちで見られました。 ミゴ箒は稲藁の芯で作るもので、藁箒の一種です。藁箒には、選り藁で作るものもあります。


 ところで、最近ほうき草が人気です。 和名は『ホウキギ』で別名『ベルベデーレ』『コキア』『ネンドウ』とも呼ばれており、春蒔きの一年草で、50cm位の高さになるといいます。日当たりの良い所へ4〜5月ころ直播きし、その後間引いて株間を50cm位にします。夏の間のグリーンはやわらかいやさしいグリーンで、秋には紅葉します。 紅葉も始めはピンク、そしてだんだん濃くなっていきます。 ユーラシア大陸の乾燥地に広く分布しており、日本には中国から入ってきました。紅葉することもあり、ガーデニングでよく使われるようです。したがって、箒に使うわけではありません。

 ところで、やはりほうき草というのですが、昔の農家の庭先にあったといいます。紅葉しないので前述のほうき草とは違うのでしょうが、自然と身が落ちて翌年に出てくるということで、意識して栽培していたわけではないといいます。干したものを保存し、箒が必要になると束ねて箒にしたといいます。束ねたばかりの箒には実がついていて、庭の掃除をしたあとにごみと一緒に土手の隅ではたいているうちに、その実が落ちて、翌年再び芽を出すようです。

 写真は長年保存しておいたほうき草を、専用の束ね機で箒にしているものです。
 専用の束ね機といっても店で売っているものではなく、木片に鉄を固定してこしらえたもので、歴史を感じます。



2.隣保制度と行政

 隣保制度に対して「暮らしの情報」No.15で触れました。そのなかで、戦時中の名残りであるこの制度は、行政の手抜きであり、さらに行政はこの制度を利用して市民同士の相互干渉により、市民生活の問題が行政にまで届かぬよう仕向けている、という本ページへのご意見を載せました。もう一度この件について触れてみます。

 長野県は田中知事の誕生とともに、現場主義が叫ばれ、知事自ら現地に出向いて地域住民の意見に耳を傾けようとしています。今までの行政とはまったく異なった、住民の声を重要視しようとする姿があり、評価を得ています。実際の声を聞くということについては、行政がらみの事業ではすなり省かれていた部分であって、田中知事が誕生せずとも、いずれはそういう流れが来るだろうという印象は、住民よりもむしろ行政にかかわっている、この場合県職員がもっとももっていたものともいえます。ただ、その手法や言動に反感があって、いま一つなじめない姿を、報道は逆手にとって「お役所はいまだお役所だ」なんていう固さばかりを表現しているのが、どこか程度の低さを感じたりするわけです。

 ところで、この現場主義については、評価できるのでしょうが、前述した隣保制度の意見と合わせて、少し検討してみます。

 行政の声をいかに手抜きをして末端まで伝達するかという見方をすれば、おっしゃる通りかもしれません。No.15でも述べましたが、これを手抜きではなく、直接行政が末端まで伝達したとしたら、どのくらいお金がかかるでしょう。これは国→県→市町村というシステムを効率よく改善しないと、とてもできるものではないでしょう。住民に向いた行政であれば、それだけに対応していればよいものの、上から降りてくるさまざまな行政処理に目を向けなくてはならないシステムでは、その手間はなくなるでしょう。公務員を増員する時代ではないですから。

 そう考えると、現場主義を緻密に実行すればするほど、この隣保制度対行政の関係と大変似てくるわけです。
 田中知事が現場に出向けば、そこに対応する人が何人も必要となる。同じように、県が中心に事業を行なえば(例えば県営事業といわれるもの)、地元に出向く際に、地元自治体の関係者も出てくるわけで、多くの人間によってよりよい提案がなされればともかく、一つ間違えば、行政関係者の手をわずらわしているだけで、ものの解決が早まればともかく、時は、人は多大にかかるわけです。

 行政に住民が声をあげられることで、ずいぶん身近にはなると思いますが、人々は自らの生業を持ち、その生業のために必死になる姿があるはずです。すべての情報を認識し、声をあげるには情報不足ですし、それほど声をあげるだけ認識を高めることができるでしょうか。

 さまざまな情報がある現在、自分たちの社会を構築するために身近な部分では何が必要で、何からはじめればよいかというところを住民が勉強しないとなかなか声は出せないのが本当ではないでしょうか。

 結局は御身大事というなかから声が発せられてしまわないよう、気をつけたいものです。
 そして、知事がいうところの現場主義による県政の住民参加は、むしろ自分たちの首をしめてしまいかねないことも留意しておくべきでしょう。
 

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