【 NO.19 】 2001. 2. 4


1.成人の日を考える

 かつては、子どもの組織、若者の組織、中老といった具合に地域には年代を追って組織がありました。それぞれの組織が地域で機能し、地域社会をカバーしていたともいえるわけです。とくに子どもから若者といった組織は、それ以後の社会生活での基礎を作るための訓練の場でもあったようです。

 『上伊那郡誌』民俗篇第四章第二節にかつて村にあった若い衆の会の規約事例があります。まず気が付くのは、こうした規約が正月15日ころに定められていることです。要するにそのころ新年の総会(総会という名とは限らないが、同様の意味合いの会)が開かれ、規約が定められたり改定されているわけです。辰野町下辰野にあった「竜盛社」といわれる若者組織の明治23年の規約によると、15才になると入社すると決められており、入社期日は初会(1月)としています。新年の会は15日前後に限らず、1日に行なうところも多いのですが、いずれにしても新年を迎えて組織への入会が認められているのです。

 農村における成人がいくつであったかは明確ではありませんが、かつて元服といわれていた年齢は15歳が多かったわけです。年齢による集団ではまず子どもの組織があり、そして若者組織となります。この子ども組織から若者組織へ移る年齢が、やはり15歳を中心とした年代が多かったようです。若者組織の年齢構成は、地域によって異なるものの、始まりの歳は大方15歳だったようです。かつての社会では、成人というとらえよりも、一人前という認識が強く、一人前としてとえられるための尺度のようなものもありました。したがって、一人前になる年齢も固定したものではなかったともいえるでしょう。

 こうした若者組織へいつ入会したのか、『長野県史』民俗編より事例をあげてみます。
  • 1月15日に入退会した。([東信]南佐久郡南牧村板橋、[南信]岡谷市川岸駒沢、諏訪郡下諏訪町下の原、茅野市南大塩、上伊那郡高遠町荊口、[中信]松本市今井下新田、塩尻市北小野宮前、松本市岡田伊深、木曽郡南木曽町与川、[北信]上水内郡牟礼村地蔵久保、上水内郡豊野町豊野、長野市吉、長野市南長池、下高井郡山ノ内町寒沢菅、長野市真島町堀之内、長野市稲里町境、長野市松代町柴、長野市松代町西条入組、更埴市倉科田端)
  • 1月15日入会、12月20日退会であった。(上伊那郡高遠町御堂垣外)
  • 入会するとき酒一升を持参してお願いをした。1月15日に青年会で獅子舞をしてムラ中を歩くが、そのさい入会者の家でもてなしをした。(上伊那郡蓑輪町上古田)
 以上は1月15日に関係する事例を紹介しました。実際には1月15日に限らず1月の初総会をもって入会というところが多く、15日に限定されるものではありませんが、限定された日としては1月15日が多いといえます。松本市史の民俗編の調査をするなかで、次のような話を聞きました。
 里山辺では若者のことを若い衆といった。かつての高等科二年を卒業した(15歳)ものから仲間にはいったもので、三〇歳までを若い衆といった。町会ごとに若い衆の名前があり、兎川寺(とせんじ)地区では都連といった。若い衆をぬけると、三一歳から四二歳ぐらいまでを中老といい、それから六○歳までを年寄り役ともいった。兎川寺地区では小正月の夫婦儀(めおとぎ) のさいに、こども仲間から若い衆仲間にはいったという。夫婦儀は、この一年間に嫁様や婿様をもらった家に若い衆がよばれて接待をうける行事で、三九郎のおわったあとにおこなわれた。夫婦儀の場になる家を当屋といい、三九郎で火の付けあいをした若い衆とこども仲間がこの当屋にあつまった。そして当屋では豆腐汁をだしたという。このときの豆腐は、若い衆がみずから当屋へ持参したものであった。こども頭はこの席で、若い衆より酒をいただくことで仲間に入ることを確認したという。太平洋戦争後もしばらくおこなわれた儀式であったが、こどもが酒席にでることに異論があって、やらなくなったという。
 この夫婦儀を境に若い衆仲間も新年度をむかえる。祭りをになうことがムラ内での役割であったが、ほかにも川ざらいや道普請といったムラの共同作業を担当した。兎川寺地区のある男性は、かつての若い衆には、年寄りに作業をさせてはいけないという意地があったという。それほどまでにムラ内における若い衆仲間の存在は大きく、ムラのリーダー的な存在であった。いまではこうした若い衆仲間の組織もうすれ、実質的には祭りの一部分だけを担当しているにすぎなくなった。これはかつての社会組織がかわったことや、さかんであった青年団組織への加入者が少なくなったことなどが要因となっている。そして組織の衰退の結果、祭りへ参加するにもしかたなく参加する、という若い衆もいるという。なお、現在では中学を卒業すると若い衆の仲間にはいるという。
(『松本市史』民俗編第6章 祈りと安らぎ 第1節 祭りの情景)
 松本市里山辺では、5月に行なわれるお船祭りを若者組織が中心になって行なっていました。こうした祭り青年ともいわれる組織は各地にあって、若者たちに祭りの芸能の一切が任されていたものです。とくにこの里山辺では船を曳航するという大規模な祭りが現在でも行なわれており、こうした祭りには若者の力が大いに必要だったわけです。いっぽう松本地域では子ども組織が中心に行なう三九郎と呼ばれる小正月の火祭りは、年中行事のなかで現在も印象深い行事として受け継がれてきています。このように大きな行事が年齢組織ごとに伝承されているだけに、それぞれの組織の受け継ぎがどこかでおこなわれていたもので、この夫婦儀の習俗は、そうした意味で貴重なものだったといえます。

 また、夫婦儀の事例にもあるように、青年組織は地域にとって共同作業を中心的に行なう組織としても存在が大きかったことがわかります。

 各地の青年組織の活動を見ると、もちろん祭り青年としての役割は一年のなかで重大なものでしたが、それ以外にもさまざまなものがありました。里山辺のような道普請はもちろん、下記のような作業も行なっていました。  こうした作業以外にも、地域の労働をまかない、報酬を得ることで、会の活動経費等にしていたわけです。このほかにもたくさんの作業、あるいは教養や娯楽といった面に力を注ぎ、地域の中心的存在であったことはまちがいないわけです。そうした活動のなかから、一人前として認められていったわけです。

 今年の成人式は物議を醸し出した報道が多かったわけですが、かならずしも1月15日という日が意味をもっていたかというと成人式としての意味合いはそれほどなかったかもしれません。全国的にみた場合、ここまで述べてきたように、この日を中心に成人としの儀式的な行事が多い日だったという程度の認識はあっても、新たに定められた祝日がとくにそこに限定されていたわけではないでしょう。ただ、この日を中心として行なわれる小正月の行事が、成人の日という祝日があるために、継続するにはよい環境にあったということはいえます。農村地帯、とりわけ山の中では、人口も減少し、神社の祭日というと土日曜日にあわせるということが一般的になりました。ある一定の日にこだわるという意識がなくなってきたからでもあります。そう考えると、成人の日が変わっても小正月行事そのものも地域ごと毎年都合の良い日に合わせて施行すればよいではないか、というところに行き着いてしましますが、いっぽうでは、年中行事のなかで大きな比重をもっていた小正月が、これを機会に忘れられてしまうことはもっと痛手でしょう。

 小正月を中心に行なわれていた民俗行事はたくさんありました。それは全国で一地域だけのことではなく、もっとも一般的な全国区的な行事の日であったはずです。その日はたまたま「成人の日」という名前が付けられていましたが、ただそれだけの日ではなかったということを変えた人はご存知だったのでしょうか。そして国会議員というとまだまだ農村地帯の出身者が多いにもかかわらず、農の正月、小正月を無視するような祝日改正はいったいなんだったのでしょう。

 昨年、初めてその日がきたとき、新聞でも祝日改正に対して困っている人たちのことが報道されましたが、今年はもっぱら成人式が目立ってしまい、昨年のような小正月を中心とした行事の話題はあがりませんでした(今年は14日が日曜日ということもあって)。

 なんとか成人の日をもとの15日に戻してほしい、という意見は多いはずです。今年話題になった成人式の報道から、成人式そのものが問われているなか、成人する、あるいは大人になる(一人前になる)ということそのものを考えるとともに、1月15日の重要性をもう一度見直してほしいものです。
 「長野県民俗の会」掲示板で福澤昭司氏が、日本民俗学会評議員としてこの問題を平成12年度に取り上げることができなかったことを悔いています。また、桜井弘人氏は、『伊那民俗』第40号において、「小正月行事を守れ」と題し、民俗関係の学会や団体がこのことを軽視していたことを指摘しています。


2.大雪と除雪

 今年は雪が多い。
 
 先日の1月27日から28日にかけての大雪は、関東から甲信越にかけて交通機関には大きな教訓を残しました。
 とくに長野県内では高速道路の通行止が長引き、県内でももっとも利用率の高い中央自動車道の通行止は、県外と結ぶ幹線道路だけに、影響は大きかったようです。冬というと長野県内にはスキー客も多く入っていて、土日にかけての大雪となると帰宅しようとする人々には大変だったはずです。同じようなことは以前にもあって、1日単位で中央自動車道が通行止めになったことはありました。しかし、今回のように3日近い通行止めは初めてです。

 県外と結ぶ道路があちこちで通行止になるなか、伊那谷では、唯一名古屋方面に通じていた国道153号線を利用しようとする車が高速道から流れ込み、開通までの間、あちこちで渋滞をひき起こしました。加えて50年ぶりともいえる大雪に、車であふれた幹線道路の除雪もままならず、高速道開通後も、まともな除雪ができなかったために、道路状況が改善されずにいます。

 こうした状況に、除雪をしろという苦情が相次いだといいます。国県道を管理する県はもちろん、市町村道においても除雪が間に合わず、市町村役場への苦情は大変だったようです。

 かつては自動車が多くはなく、あるいはなかったわけですから、除雪除雪と騒がなくともよかったわけですが、現在は毎日車が動けるのが当然と思っているわけで、そうした身勝手な思い込みがそうした苦情を募らせてしまうわけです。大災害も同じですが、自分だけが良いと思っていたら苦言しか出ません。非常時だからこそ、がまんするという意識も持ち合わせるべきでしょう。行政も無視して放っているわけではなく(なかにはそうした自治体もあるかもしれませんが)、せいいっぱいやっているなかでのことです。それよりも自ら行政に頼らず何をするべきか、しなくてはいけないかを考えるべきではないでしょうか。

 雪の降った時の除雪作業というのは、地域をまとめるよい機会でもあります。こんなときによく聞く話が、「いつもは隣に誰が住んでいるか、顔も見たこともなかったけれど、雪かきを機会に知ることができた」というものです。おそらく、かつての地域社会でのつきあいのなかでは、雪が降った場合はどういう対応をする、ということはある程度暗黙のなかできめられていたはずです。そうした地域社会での共同生活の常識のようなものを忘れ、すべてを金を(この場合税金に例えることもできるでしょう)払っているのだから自分のすることではない、と思ってしまったらどうにもならないわけです。

 民俗の調査報告を覗いても、こうした地域社会でのなんでもない掟や決め事が、わかりやすく捉えられていないようです。これからの社会で何が必要かと問われたときに、こうした今まで蓄積されたものの伝承されなくなった経験ではないでしょか。こうした一般論が常識的に伝えられない社会をなんとか改善したいというのも、民俗学の目的であってほしいわけです。

 先の「成人の日を考える」の中でもかつての青年組織は除雪を担ったとあります。かつてに比べると農村から若者がいなくなっているので、同様な取組は無理としても、そうした機能が地域にはあったということを忘れずに、地域の中で考えてほしいものです。

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