【 NO.18 】 2000. 6.12


1.マグソキンギョ登場

 飯田市山本久米で「マグソキンギョが昔の田んぼにはたくさんいた」、という話を聞きました。ムギカラキンギョとも言ったそうです。田んぼに馬糞を入れ、田植えの準備をしていると、足跡の中にたくさんのマグソキンギョが見られたといいます。これをすくってきて金魚鉢に入れて鑑賞したといい、子どものころの懐かしい思い出だと大正14年生まれの男性が語ってくれました。

 実はこのマグソキンギョは、今までも何度かこのページで報告してきた「豊年エビ」のことです。久米の男性によると、金魚鉢に入れておいても1日か2日程度で死んでしまったといいます。長生きをしなかったことを覚えているといいました。

 マグソキンギョは馬糞を入れる田に出たことから、そういわれたようですが、とくにそれは関係ないのでしょう。ただ、久米の男性によると、昔は馬糞を肥料として使ったが、このごろは科学肥料になったからいなくなってしまったという認識でいたようです。なかなかおもしろい話でした。

 今年も下伊那郡喬木村富田の田んぼに、このマグソキンギョがたくさん泳いでいます。呼び方は違いますが、すばらしい泳ぎを見せています。

 見た目はやはり金魚というより、エビですね。




2.三尺流れればもとの水

 かつて「三尺流れればもとの水」という言葉がありました。
 この場合の水とは、流れる川の水を指しています。

  5/29付信濃毎日新聞に、建設省は28日までに下水よりもきれいにできる小規模の高度処理場を下水道網の上・中流部にも設置することを来年度から認める方針を決めた、とありました。そして、河川に流す場合、下流の自治体が水道水の取水場を持っていることもあり、調整が必要となる。といっています。 行政区域が変わると、下流域は汚水の処理水を流すことを反対します。けして、現在よりも水が汚くなるわけではなく、むしろきれいになるにもかかわらず、他人が流すものには抵抗があるのです。いっそ行政割のない形、いわゆる合併によって一緒にしてしまえば、そういう問題はなくなるのかどうなのか、難しい問題です。水道水の取水どころか、農業用水として利用する下流域の人々も、同様に抵抗を見せます。

 「川」にはどんなイメージがあるのでしょう。


 ・飲み水(用水)を与えてくれる川
 ・ものを洗うための川
 ・ものを運ぶ川
 ・ものを運んでくる川
 ・遊びの場としての川

 といった生活の場としての川のイメージのほかに、

 ・地域の境界としての川
 ・洪水を起こす川

 とさまざまです。

 そして、川の大きさもさまざまであって、イメージも大きさで異なるのかもしれません。
 しかし、かつて川へ遊びの場を求めた子どもたちにとって、大きさはそれほど意識しなかったかもしれません。身近にある川であれば、大きくても小さくても「川」なのです。私の生まれた家の横には、川幅100メートル以上という川がありました。もちろん、その川の向こうは子どもにとっては異界でした。なぜそう思ったかというと、川向こうは崖になっていて、その高さは100メートル近くあったのです。あの崖の向こうは明らかに違う世界なのです。しかし、境界意識をとくに持っているわけでもなく、その川を渡って向こうに行くこともあったのです。川幅全部を遊びの場として利用していたわけです。

 こうした大きな川がない所に住んでいる方に、川が遠いようですがどこで遊んだのですか、と聞くと、すぐそこにあるセンゲ(堰)で遊んだと答えてくれます。要するに、水がとうとうと流れる川であれば子どもたちにとっては皆同じなのです。わざわざ遠くの川へ遊びに行くことがまれにあっても、普段は身近な川を利用して遊んでいたわけです。

 昔よく言われた言葉が
 「川に向かってオシッコをしちゃいかんに」
 というものでした。
 なぜいけないかというと、もちろん川を汚すからです。
 「オチンチンが曲がっちまうぞ」
 といわれたものです。
 これがまた不思議で、川にオシッコをすると本当にオチンチンが曲がるのです。
 いまだになぜなのかわかりませんが、そうした現実に遭遇するたびに「やっぱり川にしちゃいかんのだ」と気がつくものでした。

 このように子どものころから川には親しみを覚えるものでした。
 そうしたなかで、水の尊さを体感していったようにも思います。
 
 飲み水としては、今でこそ水道の水源として川の水が使われますが、かつて水道が普及するまでは、そのまま汲み上げて利用する所もたくさんありました。また、飲み水は井戸水を使っても、洗い水として川水を使うことはごく一般的なことでした。松本市神林や中山などで聞いた話では、センゲの横に漉し井戸を作ってその水を飲み水や使い水に使ったといいました。簡単な漉す機能を設けて井戸としたものですが、ほとんど川水をそのまま使っていたようなものです。
 現在でも農業用水路の端にそうした漉し井戸の跡が見られることがあります。また、「洗う」という観点では、そうした用水路の横に洗い場が設けられていることもしばしば見受けられます。

 いっぽう、川の機能としては「運ぶ」というものもあります。もちろ船を使った人為的な「ものを運ぶ」行為もありますが、洪水のあとにものを運んでくる、という川の機能もかつては重宝されました。何を運ぶかというと「たきぎ」なのです。かつては薪が燃料として利用されました。現在のような化石燃料が全盛でない時代は、身近にあるものを焚いて燃料としたわけです。ただし、山がいくらまわりにあっても他人の山では勝手に利用できません。したがって、山のない人々は、川に流れてきた流木を拾ってたきぎとして利用したのです。洪水後に運ばれた木は皮がむけていて、乾きもよく、たきぎとして最適だったという話もよく聞きます。私も近くにあった川へ祖父に連れられてたきぎ拾いに行ったことがよくありました。

 盆に仏様を送るのも川でした。

 こうしてみると、川は神聖な場であるとわかっていただけるでしょう。

 ところが、どうでしょう。こうした川とのかかわりが薄らいでいることに気づきます。

 町へ行くと川は地下に潜り、まったく下水化しています。最近では地方の町でもこうした傾向があります。まだ川幅の大きな川は地下に追いやることができす、姿を見せいますが、いけないのは狭い川です。地方の集落内へ行くと、道路が狭くなったため、方法として水路に蓋をかけて暗渠化しています。世の中から川が消えてしまったのです。諏訪市湖南で聞いた話ですが、かつては道端にあった用水路の端に人々が集まっては雑談をし、交流の場であったといいます。そうした場には道祖神が祀られていて、子どもたちにとっても親しみやすい場であったわけです。ところが、道路を広げるにも家並みがつながっていて、家を移転することもできないため、手っ取り早い方法として、水路を暗渠化してしまったといいます。同時に道祖神も邪魔になって、移転したといいます。かつて、集落の中心的な場であった川端は消え、それと同時に人々との交流もなくなってしまったといいます。

 そうした下水化した川のイメージは、人々の水のイメージも変えていったのでしょう。

 それは最近のことではなく、かつても仏を川へ送ったように、何もかも川へ流そうとする傾向はありました。
 最近でもごみを川へ捨てる人がいるようですが、かつてはごみを川へ捨てる行為が平然とされていたように思います。
 使い川の共通の掟として、いろいろな戒めの言葉があったと思いますが、そうした言葉を無視しはじめたのはいつごろのことなのでしょう。
 
 川のイメージはそのころから変わり始めたのかもしれません。

 民俗学者向山雅重氏は、『信濃民俗誌』(慶友社)のなかで、「つかひ川」に触れています。昭和34年に記述されたものですが、当時、すでに川が下水化していく様子がうかがわれます。巻山圭一氏は、平成4年1月に行なわれた長野県民俗の会例会で、この「三尺流れればもとの水」について記述した向山雅重氏の意図を解説しました。

 一般には「三尺流れれば川(水)の神が清めて下さる」という信仰から言われた言葉とされているものの、向山雅重氏は書のなかで、つかい川の水をつかうためにはしかたのない現実であることを、ありのままに示したものであると述べました。それは現実がうえのあきらめの境地のようなものともいいました。

 明らかにかつての川(水)に対する気持ちは、神聖であったでしょう。一般にいわれるような信仰がそこにはあったでしょう。
 しかし、戦後の変動は暮らしを、意識を変えていきました。何度も言いますが、向山雅重氏の記述した戦後の10年余の時代に、すでに神不在の現実(巻山圭一氏指摘)があり、それを記述しようとした民俗誌が存在していたのです。

 近年の下水道普及全盛(田舎で)を目の当たりにし、「三尺流れればもとの水」といわれた時代の心持ちや情景が浮かんできます。

 


   or