【 NO.15 】 2000. 1. 1

滋賀県永源寺町高野神社で、1月2日に行われる事始め神事。男神は松の木の四つ股、女神は桜の木で作られたもの。顔のあたる上端に白紙の帽子をかぶせ、胴下には性器が模られる。両者を近ずけると、室人が甘酒を上から注ぐ。
 
 


1.喪に服す

 郵便の年賀状については、明治4年(1871)3月に郵便の配達が始まってから3、4年後には「恭賀新年」と葉書に記す風習として始まっていたといいます。

 年末になると、喪中による年始の挨拶欠礼の葉書が届きますが、これは正に年賀状を失礼します、といった意味のものです。
 この喪に服す、ということはどこから来ているのでしょう。そして一般的にいわれる1年間という期間もどういう意味なのでしょう。

 須藤功氏は、『葬式』(1996 青弓社)のなかで、愛知県北設楽郡東栄町月の花祭りに不幸のあった家が祭場にはいってはならないとする一定の期間を示したうえで、1年の喪に服す期間を説いています。

 それによると、まず、示された一定期間は次ぎのようなものです。
十三ヶ月……父母、夫、離別の母。
百五十日……養父母、夫の父母、祖父母。
九十日………妻、嫡子、兄弟姉妹、母方祖父母、伯叔父方姑、伯叔父方姑。
三十日………嫡母、末子、養子、曾祖父母、異父兄弟。
七日…………嫡孫、末孫、曾孫玄孫、従父姉妹、甥・姪。
なし…………七歳未満。
 この期間について、明治政府の忌服令によるものだろうといっています。この忌服令は「忌」と「忌服」にわけてあって、父母の忌は五十日、忌服は月の花祭りにもみられる十三ヶ月だったといいます。この十三ヶ月が、死者に関係なくおよそ1年となって浸透したのではないかと、説いています。これらは神道を推し進めようとした明治政府の考えなのでしょうが、とくに神にかかわるところでこの1年の喪に服す姿がみられます。

 12月8日に下伊那郡南信濃村中立で行なわれる霜月祭りにかつて訪れた際、社殿の外でサンマを焼いている方に、「今年は中で舞わないのですか」と聞いたことがありました。すると「今年は親父が亡くなったので、裏方の仕事な」と答えてくれたことがありました。小さな集落なので、祭りにまったく出ないというと、人手がなくなってしまうため、裏方で手伝うのだといいました。

 わたしの生まれた上伊那郡飯島町本郷でも、この1年に死者のあった家ではブクといって、祭りには参加しませんでした。

 現代では郵便に変わる通信手段はたくさんあります。電話の一般化は郵便から多くの人を遠ざけました。最近ではEメールの普及でさらに郵便に頼る人が少なくなったともいえます。葉書を書く、なんていうと、雑誌のプレゼントコーナーの応募や往復葉書の返信ぐらいで、手紙に切手を貼るなんていうことは1年に一度もしない……なんていう人もけっして少なくないはず。したがって、ふだん会うことも、電話をすることもないようなかつての知人への年にただ一回の音信のために年賀状を出すということもあるかと思います。1年の無事を確認する唯一の機会ともいえます。そうした意味合いが強いからこそ、賀状欠礼の葉書も無意味ではなく、年賀状と同等に扱いたいものでもあります。

 この喪中による賀状欠礼の葉書は、「喪中につき年末年始のご挨拶ご遠慮申し上げます」といったもので、文面は若干異なるものの、全国的に同じような文面です。ところが、このあとに続く文をみると、けっこう人によって違ってきます。あっさりしたものは、「本年中に賜りましたご厚情を深謝いたしますと共に、明年も変わらぬご厚誼のほどお願いいたします。」で終わってしまいます。先ほども言いましたが、知人への年にただ一回の音信のためだとしたら、いったい誰が亡くなったのかぐらいは記さないと受け取ったほうも様子がわからないわけです。かつてはそうしたあっさりした文面が一般的でしたが、最近は誰々が亡くなったと記されているものが多くなりました。付け加えて、何月何日に何歳で亡くなりました、とあるとなお一層わかりやすいわけです。さらに、年一回の音信となれば、たとえば「○○がこの度家に戻り、家を継ぐこととなりました。」などと一筆入ってくるといっそう賀状欠礼とはいえ、内容の濃いものとなってきます。しばらく会ったことがなくても、ただ一回の年賀状がお互いを結ぶのなら、喪中の葉書も大事な近況報告なのですから。

 このように喪中の葉書がけっして無意味なものでないとすれば、葉書をもらった側はその返事を出すことも忘れてはならないのでしょう。この返事を出すという人はほとんどいないのではないでしょうか。何度も言いますが、年に一度というような音信ですので、お悔やみの言葉を添えて、明年の変わらぬご厚誼をお願いするのは年賀状にも増して、相手への思いやりとなるのでしょう。事実、そうした返礼をいただく側の心は和むものです。そういうわたしも返礼をしていませんが、改めたいものと思います。

 ところで、この喪中が1年というのはいいのですが、どの範囲までが喪中なのか、なかなか人によってとらえ方も違うのでしょう。先に示した月の花祭りの事例でもわかるように、本来は関係によって喪に服す期間が違いました。もちろん現在でも神道にかかわる人々には一定の規則のようなものがあるのでしょうが、一般の人々には明確なものがありません。たとえば、妻の家の祖父母が亡くなった際に、夫まで喪中といって賀状を欠礼する必要があるのかないのか。昔と違って、最近の若い夫婦は夫婦の名前と、子どもたちの名前を併記して年賀状を書くことが一般的です。したがって、身内に喪に服している者がいれば、同じく喪に服すという傾向は、男女平等の世の中らしい変化かもしれません。先の月の例にもありますが、妻が亡くなった場合、90日となっています。妻の父母にいたっては書かれていません。いずれにしてもそれぞれの人の考え方だけでしょうから、欠礼の葉書をいただいた方は喪に服しているという判断をすればよいことなのでしょう。

 さて、新年の挨拶ですが、最近は会社勤め社会。仕事始めの際には「あけましておめでとうございます。本年も昨年同様よろしくお願いいたします。」なんていう挨拶がおこなわれますが、こうした際にも喪中の人には言葉を変えなくてはいけません。新年の祝詞がはいらないようにするといいます。この考えはあまり気にされていない人も多く、喪中の人本人が「あけましておめでとうございます」と挨拶をされる方もいます。しかし、受けた方は相手がしても新年の祝詞を入れないように「昨年はお世話になりました。本年もよろしくおねがいいたします。」といったように挨拶をします。

 この考えそのものが宗教的なのか日本的なのか、よくはわかりませんが、喪に服すということそのものをまったく気にされない人もいますので、まあそれほど気遣う必要もないことと考えるのもひとつです。
 
 

2.自治組織(アンケートから)

 先の年賀状は遠い知人への新年の挨拶にあたりますが、実際に訪問して年始の挨拶をする風習は現在でも一般的です。とくに農山村において、この風習がおこなわれています。『日本民俗辞典』(大塚民俗学会編 弘文堂)によると、「……カドアケといって元旦に分家の者が本家の門の戸をあけ、本家で祝宴を開くといった例にみられるように、本家筋へ行くのが本来であったと考えられる。本家に先祖を同じくする者が集まり共に新年を迎え、共食により結合を強める意味をもっていたのである。したがって、もとは大晦日の夜から元旦にかけての年ごもりであったのが、大晦日と元旦とに分かれたのであろう。しかし次第にその範囲が拡大され、本家に集まるのは分家だけでなく他の関係の者も加わるようになる。……さらに村年始といって、部落全戸をまわって歩く形になり、そこでは下から上へとの関係はみられなくなってくる。このように年始の形、とくにその範囲にはかなり変遷がみられるため、逆にそこから地域社会の構造を知る手がかりをえることができよう。」

 長文を引用させてもらいましたが、農山村の正月はこの説明のとおり、かつての年始から変遷し、現在では地域社会の構造を知るひとつに年始のあり方があるといってもよいでしょう。わたしの生まれた上伊那郡飯島町本郷のある隣組では、元旦に当番の家に集まり、新年会をしていました。昭和40年ころのことで、前の説明からいけば、少し年ごもり的な部分もみえます。実際はそんなことをしていたという意識もなく、そうした伝承もない寄り合いでしたが、無理やり説明に合わせてみるとそんなようにもみえてくるという、勝手なわたしの見方でもあります。こうした新年会は、飯島町にかぎらずどこでもおこなわれていたことで、わたしの住んでいる近くの隣組でも、同じことが現在もおこなわれています。

 こうした新年会とは別に、部落の集会所に集まって元旦に新年会をするという地域もまだまだ多くみられます。

 先の生家の隣組では、のちにこの新年会を取りやめました。元旦には各戸予定があって、不都合だという意見から止めたといいます。テレビを見ていると、正月は海外で、とかスキー場でといった具合に遠出をする家族が多いなか、こうした田舎では外国の話題のようにかつて聞いていたものの、いよいよ個々の自由が優先されるようになってきたわけです。

 地域社会、とりわけ最も身近である隣組や自治会については、やはり変遷があります。松本市中山では、第二次世界大戦以前は同姓のつながりが強く、集落が同一であってもほとんど付き合いをしないという人も多かったといいます。戦争中に五軒の隣組というものができて、その単位に配給がおこなわれました。そうした隣組は家続きに組んでいきましたが、戦後になるとその隣組は薄れていき、再び同姓を中心とした隣組に変化していったといいます。家が少し離れていても分家に出た家は本家の組に属したといいます。

 このような同姓を基本としたつながりは、現在でも残っているところが多いものの、隣組の組合せは近隣で形成するという形が一般的になってきました。家、地域、行政というつながりが、これから先どうなるのか興味深いのですが、さまざまな事例を紹介しながら、しばらく「暮らしの情報」であつかってみることにします。

 その第1段として、本ホームページでおこなっていたアンケートに触れたいと思います。

 今までいただいたアンケートの回答数は少ないのですが、それを下記にまとめました。

NO.1 ふだん暮らすなかで、もっとも身近な隣組とか町会、あるいは常会というつきあいが必要だと思いますか。
     必 要…………………………44.4%
     必要ない ……………………11.1%
     どらともいえない ……………44.4%

NO.2 おなたは隣人の家族構成を言えますか。
    言える…………………………77.8 %
    言えない……………………… 0.0%
    だいたい言える………………22.2%

NO.3  隣近所の情報(うわさ話も含めて)を、あなたはどうやって手に入れていますか。
    隣人…………………………66.7%
    近所の友人…………………11.1%
    子供の友人の親……………22.2%
    隣組や町会の寄り合い ……11.1%
    親戚の人……………………33.3%
    家族…………………………11.1%

NO.4 あなたのお住まいの地域を選んでください。
    アパートや団地………………22.2%
    都市部及び近郊の住宅地 …11.1%
    地方の町の住宅地 …………22.2%
    農村部の昔からある住宅地…33.3%
    農村部に戦後できた住宅地…11.1%
 
回答者の年代
     10代………… 11.1%
     20代………… 44.4%
      30代………… 22.2%
      40代………… 22.2%

 以上の結果ですが、NO.4と年代については、1から3を答えていただいた人の背景ととらえてください。地域のなかに自治組織は必要と答えた方が多いものの、回答者が少ないのでこの結果からのコメントは控えますが、NOと答えていただいた方から隣保制度に対して意見がありました。要約すると、戦時中の名残りであるこの制度は、行政の手抜きであり、さらに行政はこの制度を利用して市民同士の相互干渉により、市民生活の問題が行政にまで届かぬよう仕向けているといっています。また、いっぽうで制度抜きにしては社会的行動ができないとまで述べ、行政側に都合よいものの、市民同士はそうしたなかでいがみ合い、しかも社会問題を解決できない構造を作っている、と述べています。

 NOといわれるだけにもっともな説明が付記されたわけですが、この場合隣組制度を指して反論されており、その上の区とか町会といったものも含めてのものかはよくわかりません。わたしは個人的には制度という堅苦しい言い方はともかく、自治組織は必要なものと思っています。ただ、地域の環境によっても違うでしょうし、彼がいうような行政が利用しようとする気持ちが強ければまた状況は異なるでしょう。また、隣組、区、町会といってもさまざまであって、わかりずらいものです。そうした状況の違いを次回以降に述べていきます。

 ところで、長野県で多く購読されている信濃毎日新聞の2000年1月1日元旦第2部において、「家族」を特集しています。家族のこれからを模索するさまざまな事例を報告していますが、この家族こそもっとも小さなまとまりになります。このまとまりがひとつの単位となって自治組織へつながっていきますが、独居老人も含めて1人暮しがどう地域、ことに自治組織に影響を与えていくか、今までの自治とは違った姿といえるでしょう。こと新しいことではなく、都会ではもうずっと昔からその姿があるとお叱りを受けるでしょうが、田舎はまた違った意味をもってきます。なぜか。それは広範な空間を維持するに必要な労力がかかわってくるからです。一人当りが占める空間(土地といってもよいでしょうか)が大きいということは、そこを管理しなければならないという労力が派生します。これを行政にゆだねるとなると、人口が少なく予算の少ない田舎では無理になります。今までこうした空間維持に身近な自治組織がたずさわってきたといえます。それが、1人暮しという世帯そのものが構成員の何割も占めるようになってしまったとき、どう変化するでしょう。

 新聞では事実婚カップルと題して、入籍はしていないものの一緒に暮らす夫婦を紹介しています。なんだそれはただの同棲ではないか、ということになるでしょう。ただ、戸籍上はともかく、夫婦という認識があるのなら、地域から見れば1世帯という先ほどの最低単位になるのでしょう。ひとつ家に2世帯はないでしょうから。そうした場合自治はどうかかわってくるのか。夫(この場合男性といった方がよいのかも)のコメントとして、この関係を職場の女性は「いいですね」とうらやむといいます。いっぽう男は何も言わず、この『違った形』を認めたがらないといいます。妻(女性)のコメントとして、「地区の常会役員を引き受ける時も「ご主人の名前で登録して」と言われ、困った」とあります。本人たちがいう「この形が自然だった」というのは、やはり個の意識を重視したもので、地域で暮らすという部分ではしっくりこなかったわけです。地域=男性という構図は現在でも強いでしょう。したがって地域に若いころから根ざさない女性にとっては、「いいですね」とうらやむことができるものの、男性が何も言わない、というやりとりそのものがなかなか奥深さを醸し出します。この記事では安易(失礼、けっして安易ではないでしょうが)に家族の違った姿を映しだそうとしていますが、今まで構築されてきた家族観を否定はしたくないものです。そうした問題も含めてご意見をください

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