【 NO.14 】 1999.11.23

1.カツ丼の世界

 わたしは職業がら外出が多い。すると、弁当を持参すればよいものの、職場には弁当を持参する者が少ないために、なんとなく外食となります。よく一緒に外出する相棒は、20代で独り者。体もでかく力のつくものは大好きですが、意外にも体のことを考えていて、糖分にはずいぶん気を使っているようす。

 世の中変わったもので、昔は食糧の栄養バランスなどほとんど考えずに食べていたわたしを、「いまどきの若いやつらは違うな―!」とうならせるのです。

 そうした相棒がお昼によく頼むのがカツ丼。カツ丼が好物なようです。それも味が濃そうで意外と薄いソースカツ丼。

 ところで、どんぶりものというと、何を思い浮かべるかといえば、天丼や肉丼とともにカツ丼が浮かべる人は多いでしょう。
 起源をたどるとそれほど古いものではないものの、けっして新しいものでもないようです。

 渡辺善次郎氏の『巨大都市江戸が和食をつくった』(農文協 1988.11)によると、要約すると次のように書かれています。

 「カツレツ」といえば牛肉かとり肉のことをいう。明治はじめからあった。明治28年12月5日刊「女鑑」99号にカツレツの製法が書かれている。これは西洋カツレツの本来のものであって、その後日本にひろまった油であげるものではなくバター焼であった。
 豚肉のカツレツは、明治27年銀座に開業した洋食店がはじめて売り出したといわれている。カツレツにキャベツの千切りを添えたのもこの店の考案という。しかし、まだトンカツという呼称はなく、ポークカツレツ、豚肉カツレツといっていた。
 トンカツといわれるようになったのは昭和のはじめで、起源は諸説ある。
 昭和4年宮内省大膳職を退職した島田信二郎が、上野に「ぽんち軒」という洋食店を開き、厚い豚肉を油で揚げたカツレツを「トンカツ」と書いて売り出したのが最初ともいう。
 また、他には、昭和6年の秋、上野駅前に開業した「楽天」や7年浅草にできた「喜利八」などがトンカツの元祖だとしている。トンカツの流行するのは、昭和初期以降。
 日本でつくられるカツレツは少量の油をひいて焼きあげる西洋風のやり方とは違って、天ぷらと同じように大量の油のなかで揚げるもの。
 山本嘉次郎「日本三大洋食考」(S48 昭文社)では、天ぷら技術は日本人でないとできないもの。ポークカツレツはナイフとフォークで食べたが、トンカツは適当に切ってあり、箸で食べられる。それまでカツといえばビーフカツかチキンカツを意味していた。トンカツが普及してからカツといえば、トンカツをさすようになった。
 早稲田大学高等学院生であった中西敬二郎は、カツレツからカツ丼を発明したもので、大正10年のこと。

 このように東京から広まっただけに、田舎にこのカツ丼が広まるには時間がかかるような気がするのですが、戦前にはもうカツ丼がこのあたりでも食べられたと聞きます。ただ、外食そのものが一般的ではなかったですから、本当に田舎に分布したというよりも、田舎でもマチといわれる中心街に広まったのではないでしょうか。

 カツ丼については、ずいぶん詳しく楽しく載せているページがありました。
 というもので、カツ丼分布アンケートなんかが載っていて、カツ丼を好きな人にはうれしい情報がたくさんです。

 ちなみに、カツ丼分布アンケートによると、予想どおり玉子とじのカツ丼は全国に分布します。いっぽうソースカツ丼もけっこうあちこちに分布しますが、関東から中部あたりが中心で、西日本の方には見られないのが特徴でしょうか。濃い口醤油の関東に対して薄口醤油の関西という東西の趣向の違いが出ているのでしょうか。

 この東西をあつかった最近の書物では、福田アジオ氏の『番と衆』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー 1997)があります。こと食べ物にかかわると東と西が対抗しますが、そうしたことも書いてあります。民俗学の専門的なことも書かれていますが、一般の人にも楽しめますので、一読するのもよいでしょう。
 わたしが、このホームページでアンケートにしている調味料のことも、きっかけは食べ物の地域性でした。東と西というよりも長野県の北と南の対立を原点にしたもので、つきつめればこの東と西になるのかもしれません。ご意見がありましたら、ぜひメールで頂きたいと思います。

 さて、駒ヶ根市には、ソースカツ丼なるものがあります。
 なぜソースカツ丼なのだ・・・・・ということについては、『長野県民俗の会通信』126号(1995.3.1)にわたしが書きました。以下にその文面を掲載しますのでご覧ください。

カツ丼と食文化

 この話は正月早々のある宴会場から始まった話である。それは「駒ヶ根市にはソースカツ丼というものがあるというが、いったいどう違うんだ」という問いであった。同じソースカツ丼の文化圏に住んでいる私としては、その疑問に対して答える義務があったわけだが、自ら調理したこともなく、また、特別推薦できるほどの食べ物というイメージがなかったため、どう答えても単なるご飯の上に揚げたカツをのせて、ソースをかけて味付けしてあるという程度しか表現できなかったわけである。

 ところで、今まで民俗でとらえてきた食生活というと、農山漁村などにおけるハレとケの食の違いとか、主食の材料、あるいは風土に応じて特産化されてきた食物といったものであった。現在の食生活とは切り離されてしまった過去のもの、という印象が強いわけである。そんななかで、カツ丼をとりあげたことはないのだろうか、と少し紐解こうとしたがどうも見当たらない。しかし、現在の食を扱ったものとして、巻山圭一氏が会報一二号において「ハンバーガーと高校生」を取り上げており、改めて読みなおしてみて次のような点に気付いたわけである。

 高校生へのアンケート方式で若者との接点ともいえるハンバーガーをとらえたわけであるが、木曽山林高校という立地集件でありながら、ハンバーガーショップを多〈の生徒が利用しているということに驚いたことである。失礼だが木曽でもハンバーガーショップがあるんだ、という偏見によるものともいえる。さらにどこの店がおいしい、とかどこの店のハンバーガーには○○が入っている、といった具体的評価がきれていることであり、若者世代における噂の広がりがよく現われている。それは近くにハンバーガーショップがなくても、遠くまで話の種で食べに行くという広がりも与えるのである。考えてみれば、食べ物についてどこどこの店は、という噂はつきもので、またよりおいしい物を食べたいとか、珍しいものを食べてみたい、という気持ちは誰でも持っているものである。そう考えてみると、例えば例会の昼食をとる時もそんな噂話の一つや二つは聞き取ってきて、噂話の真相を解いたり、また自ら噂話を作り上げてみるのもいいのではないだろうか。そんな気持ちで企画したわけでもないが、第一〇二回例会では南信濃村をたずね、食を語るわけだから話は尽きないはずである。

 話がそれてしまったが、カツ丼一つとってみても地域性がかなりあるといわれている。また、駒ヶ根市のケースもそうだが、地域おこしという流れによって地域性が表面化した例は多いという。そしてそれらは最近名物化したものばかりではなく、戦前とか戦後まもないといった時代から、すでに食生活の中に存在していたものも多いといわれており、こうした食も捉えたいものである。

 さて、最後になってしまったが、明快に答えられなかったソースカツ丼について少し紹介する。上伊那郡一帯では食堂に行って「カツ丼をください」というと、丼にご飯を盛りキャベツを敷いて、その上にソースのたれで味付けした揚げカツをのせたものが出てくる。恥ずかしい話だが、カツ丼というものを私が初めて食べたのは社会人となってこの地域を出てからであったので、玉子とじののったカツ丼が当たり前だと思っていた。ところが帰ってきてカツ丼を頼んだところソースカツ丼が出てきて、「なんだこのカツ丼は」と驚いたものであった。そのうちにあちこちで食べてみると、どうも上伊那郡一帯にはこのカツ丼が多いということを知った。

 駒ヶ根市でこのカツ丼を名物として売り出したのは、平成四年というからごく最近である。商工会譲所が中小企業庁の補助金をもらって地域おこしをしようとした時、たまたま外部の人が言った「駒ヶ根市のカツ丼は珍しい」という言葉を思い出し、栃木の佐野ラーメンのように同じ地域おこしをしている所を視察したり、研究を重ねて始めたという。ソースカツ丼は他の地域でもあるといわれており、例えば桐生市あたりもソースカツ丼だという。ただし作り方が違っており、桐生市の場合はキャベツがのらないという。駒ヶ根市では、地元産の肉やキャベツを使って作ろうという方向に進んでおり、行政が中心になっての名物化といえる。ただしこのソースカツ丼であるが、東京などでは大正時代ごろから始まったといわれ、駒ヶ根市でも昭和初期には始まっており、老舗の店も二店ほどあるという。現在多くの店が「駒ヶ根ソースカツ丼会」に加盟しており、特にソースのたれについて工夫しているという。どこが違うんだ、という問いに対してあまり明確には答えていないが、いずれにしても揚げたカツをたれに浸して、よく味付けしてからキャベツの上にのせるのがコツのようである。蛇足であるが、この地域ではソースカツ丼のたれをスーパーで売っており、このたれを買ってきてそれぞれの家庭で、それぞれの形でカツ丼を作る人が多く、むしろ自分の家で作った方がおいしいという人が多いことも事実である。


 長野県内のカツ丼事情をみると、昭和50年代ころには、カツ丼というと玉子とじのものが一般的であったと思います。

 ところが、最近は食堂などで「カツ丼ください」というと、ソースですか玉子とじですか・・・・とわざわざ聞いてくれたりする。両方メニューとしてもっている店が多いのです。そして、こと駒ヶ根市あたりだけではなく、最近はソースカツ丼がどこでも食べれるようになったのも事実です。キャベツをご飯と肉の間に敷くのが、このあたりの特色である・・・・なんていうこともいわれましたが、実はけっこうキャベツが挟まれているカツ丼もあちこちで見ることができます。

 長野県でも南の飯田市あたりでは、名古屋に近いこともあってミソカツを食べさせてくれる店も多いです。しかし、ソースカツ丼が広まる前からミソカツも分布していましたが、ソースカツ丼がメジャーになるいっぽうで、いまだにミソカツはマイナーで広まっていないといえます。

 さて、どこどこのカツ丼がうまい・・・・なんていって相棒と今日もお昼の場所探します。




2.なにげない意識から

 先日、ある会議のなかで、わたしが聞きとったことについて書いた文を読んで指摘されたことがありました。

 それは、「・・・・水の便が悪かったため、水には苦労したという。茶碗は毎日洗えなかった。もちろん風呂を焚くことも、一週間に一度か二度だった。」という文でした。
 内容は文のとおりで、水の便が悪かった時代には茶碗も洗えず風呂も焚けなかった、という意味なのですが、昔のことをご存知の方はお分かりでしょうが、かつての多くの農家では、茶碗を毎日毎回洗うということはせず、膳箱か茶ぼ台にそのまま食事のあとは入れていました。風呂は家風呂などなく、もらい風呂をしながら暮らしていたものです。

 ですから、わたしの表現方法からいくと、水の便がわるいからそうだった・・・・と聞こえるのです。そこが違うというのです。確かにわたしの表現方法もまずいのですが、なぜ承知の上でわたしがそう書いてしまったのか、と考えたら、話をうかがった方が「水の便が悪い」ことを強調して答えたからです。
 話し手にとってみれば、水の便が悪かったから茶碗も洗えず、風呂も焚けなかった・・・・ということになるのですから、うそではないのです。

 ここで次のような問題点が浮かびます。
  1. その時代背景がいつか。すでに一般的には茶碗を毎日洗うような環境になっていて、風呂も毎日はいるような時代になったにもかかわらず、話し手の言うような状況だったのか。
  2. 話し手にとってはそれが本当の意識だったのか。

 わたしはおそらく両方の意識が話し手にあったととらえています。

 日常のなかで聞く・話すはあたりまえのことです。しかし、どうでも良いと思った一言で悪い気にさせたり、勘違いされたりすることはしばしばです。

 わたしたちは情報をどの時点で得て、どう解釈するかによって捉え方が変わることをよく理解しなくてはならないとともに、もっとも重要なことは、聞きたい人はある程度情報を持っているからこそ「なぜ・・・・」と思うわけで、ここに話し手とのすれ違いが生じることがあることを知っていなくてはならないわけです。

 話し手の情報量と聞き手の情報量の違いがあることを前提に聞きたいわけですから、聞き手もそのへんの微妙さを捉えるとともに、確認も必要なのでしょう。

 さて、このなにげない問題ではあるものの、読み手もまた同じわけです。読み手は、最初から違うぞ・・・・とらえるのではなく、その背景まで読み取らなくてはならないわけです。こうして考えてくると、もちろん書き手の問題が第一ではあるものの、ものを読む側がどこまで書き手の心をつかむかによってずいぶん変わることを知らされるわけです。

   or