【 NO.6 】 1999.1.1


1.ツボ(たにし)を食べる

 伊那谷でツボといわれるたにしは、かつては田んぼに生息する貝類として、食用されてきました。しかし、農薬を使うようになってからその姿を見なくなりまた。むしろ外国から入ってきたジャンボタニシが、稲作の障害になっていることの方がよく知られており、そのうちにはタニシといえば害虫とされる時代が来るのでしょうか。
 『長野県史』民俗編によると、タニシについて各地域から報告があり、ほぼ県内全域で食べられていたようです。同書による報告をあげると次のようです。

 南信(『長野県史』民俗編第二巻(一)南信地方 日々の生活)
○ツボ・ツブ・たにしを味噌汁に入れて食べた。(上槻木、野底、青島、御堂垣外、名古熊、羽場)
○たにしを稲刈り後の田の中からとり、泥をはかせて水洗いし、味噌汁に入れて大根と煮て食べた。たんぼに農薬を使用するようになって食べられなくなった。(S初−神宮寺)
○たにしをたんぼからとってきて水に入れ、泥をはかせて味噌汁で煮て食べた。(S20−塩沢、立沢)
○ツプを味噌汁に入れたり煮付けたりして食べた。(北割)
○ツポはしりを切って味噌汁にしたが、石灰窒素や農薬で死に絶えた。(S初−下青木)
○ツポを食べた。(新井)
○たにしやしじみの泥をはかせて味噌汁やしょうゆ汁とした。(南条)
 中信(『長野県史』民俗編第三巻(一)中信地方 日々の生活)
○たにしを食べる。(T中−新屋)
○ツボを食べる。(原野)
○たにしを味噌で煮て食べる。(奉納)
○ツプを味噌で煮て食べる。(大網、千国)
○たにしを味噌汁に入れて食べる。(千沢、雲根、S中-竹の花、向粟畑)
○ツブを味噌汁に入れて食べる。(上押野、S25−取出)
○ツボを味噌汁に入れて食べる。(菅)
○たにしをたにし汁にして食べた。(S30−嶺方)
○たにしをつゆに入れて食べる。(長尾)
○たにしのむき身を卵とじにして食べた。(S30−嶺方)
○たにしのむき身を大根と煮て正月に食べた。(S30−嶺方)
○ツブのむき身をつくだ煮にして食べる。(上押野、S25−柏原)
○ツブの殻をたたきつぶして身を取り、しようゆで煮て食べた。これをタタキツブといった。(T−取出)
北信(『長野県史』民俗編第四巻(一)北信地方 日々の生活)
○たにしを食べる。(T中−新屋)
○ツボを食べる。(原野)
○たにしを味噌で煮て食べる。(奉納)
○ツプを味噌で煮て食べる。(大網、千国)
○たにしを味噌汁に入れて食べる。(千沢、雲根、S中−竹の花、向粟畑)
○ツブを味噌汁に入れて食べる。(上押野、S25-取出)
○ツボを味噌汁に入れて食べる。(菅)
○たにしをたにし汁にして食べた。(S30−嶺方)
○たにしをつゆに入れて食べる。(長尾)
○たにしのむき身を卵とじにして食べた。(S30−嶺方)
○たにしのむき身を大根と煮て正月に食べた。(S30−嶺方)
○ツブのむき身をつくだ煮にして食べる。(上押野、S25−柏原)
○ツブの殻をたたきつぶして身を取り、しようゆで煮て食べた。これをタタキツブといった。(T−取出)
○たにしを食べた。(桑名川、小境、愛宕町、静間、北永江、上野、桐原、五十平、夏和、中村、坂井、上新田、菅、田上、中野中町、羽場、塚本、綱島、岡田)
○たにしを殻からとり出し砂糖・しょう油などで味付けをしながら煮て食べた。(桐原、菅、田上、羽場、岡田)
○油でいため、しょう油に少量の砂糖を入れて煮付けた。(上野、上新田、中野中町、塚本)
○味噌汁の中に入れて食べた。(夏和、綱島、岡田)
○黒豆と混ぜて味付けをしながら煮た。(五十平、夏和)
○むき身を乾燥しておき、煮物などに入れた。(中村、坂井)
○酢味噌あえにして食べた。(中村)
東信(『長野県史』民俗編第一巻(一)東信地方 日々の生活)
○たにしを食べる。(T中−新屋)
○ツボを食べる。(原野)
○たにしを味噌で煮て食べる。(奉納)
○ツプを味噌で煮て食べる。(大網、千国)
○たにしを味噌汁に入れて食べる。(千沢、雲根、S中−竹の花、向粟畑)
○ツブを味噌汁に入れて食べる。(上押野、S25-取出)
○ツボを味噌汁に入れて食べる。(菅)
○たにしをたにし汁にして食べた。(S30-嶺方)
○たにしをつゆに入れて食べる。(長尾)
○たにしのむき身を卵とじにして食べた。(S30−嶺方)
○たにしのむき身を大根と煮て正月に食べた。(S30−嶺方)
○ツブのむき身をつくだ煮にして食べる。(上押野、S25-柏原)
○ツブの殻をたたきつぶして身を取り、しようゆで煮て食べた。これをタタキツブといった。(T−取出)
○たにしの泥をはかせて煮て食べる。(S30-馬場、塩田上本郷、尾野山、塩沢、跡部、十二新田、余地、親沢)
○たにしの泥をはかせて味噌汁に入れて食べる。(東田沢、香坂、塩沢、大地堂、平林)
○たにしをゆでてぬき身にし、煮つけて食べる。(西脇、S30-馬場、塩田上本郷、長土呂、大地堂)
○たにしの中味を乾操して保存する。(西脇、香坂、平林)
○たにしを食べる。(矢沢)
 このように全県下において食べられていました。とくに味噌汁に入れて食べる方法が一般的であったようです。

 ところで、タニシの種類もさまざまなようです。一般的にはオオタニシやマルタニシがあり、そうしたものがとくに食用とされたようです。
 タニシについては、群馬県立自然史博物館の収蔵情報を参考にされるとよいでしょう。

 下伊那郡喬木村富田西の平では、ため池を秋に干してツボをとっています。
 これはツボをとることを目的としたものではなく、1年使ったため池を管理し、来年の稲作の準備をすることが目的でした。
 今までにも何度かこのため池については、触れてきました。山間地であって、奥に山しかないことにより、上流の影響を受けず、水質の悪化から逃れてきました。そのため、姿が見えなくなったさまざまな水生昆虫を、現在でもたくさん見ることができます。そうした水生昆虫のひとつにこのツボがあるわけです。

 ここには二つのため池があり、西の洞上の堤、西の洞下の堤と呼ばれています。それぞれの受け持つ水田面積はわずかなものですが、かつては桑園地帯であったところに水を潤し、水田として活用することができるようになりました。戦後の食糧増産政策以前は、現在の農村には桑園や山林がとても多かったといいます。戦後のわずか20数年の政策のなかで、多くの土地が水田として開拓され、現在のような農村環境をつくったわけです。しかし、そうした政策の結果、生産調整が始まり、農業の衰退を招いてきました。西の平におけるため池慣行は、地域をまとめ、社会生活の基盤をつくってきましたが、これから先、この地域のため池慣行がかつてのように続くかどうかわかりません。それは山間地であるがうえの農業の将来性ともかかわってきます。
平成10年のツボとりは、雨の中行われました。

 そうした環境だからこそ、かつての自然が残ったわけで、意図的に残されたものではありません。
 かつては、ため池で鯉を飼い、管理後の1年の労をねぎらう際の肴とされてきました。それは、戦前のことで、そのころは堤を干して管理することを「堤のコイトリ」といったといいます。その後鯉は堤の土手を痛めるというようなこともあって、飼わなくなったといいます。そして管理することの名称も「堤を干す」というようになり、現在は「ツボとりをする」といいます。かつてはどこにでもいたツボが、現在ではこのため池にしかいなくなったためでもあります。干した際の収穫になる最たるものがツボということから、そう呼ばれるようになりました。この際捕れるものとして、うきす(めだか)やタモロコがあります。しかし、なんといっても各人バケツ1杯ほど捕れるツボは、この日の最も楽しみとされています。
 このとき捕れたツボは、どろを吐かせて先(とんがりの部分)をはさみで切り落とし、しょうゆで煮て食べる方法がどこでもとられます。こうしたツボは秋祭りの貴重な肴とされています。

 平成10年のツボとりは、下の堤ではツボが小さかったため、捕りませんでした。上の堤ではご覧の写真のように、雨の中で行われました。ご存知のとおり、天候不順のため、なかなか捕る機会が得られず、祭りより後になりました。雨の日は、ツボが表面に出てこないため、今回は大収穫とまではいきませんでした。それでも参加した4戸それぞれに分配したところ、ほぼバケツ1杯になりました。
 ため池への道は、現在でも下の写真のような細い三尺道を通っていくわけで、管理には多大な労力をかけています。しかし、この道を広げようとは思っていません。細いがために、人を寄せ付けない環境が現在でも残っています。

 まぼろしの魚ともいわれるメダカよりは、水質に敏感でないため、まだまだ見ることのできるたにしですので、水田に放して飼育するのもひとつです。
 しょうゆで煮つけたツボの味は、きっとお酒の肴にはとても合うはずです。

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