『遥北通信』144号(H6.10.1)

石神・石仏研究への民俗学からのアプローチ

三石 稔
 『遥北通信』第130号において「最近の郷土研究の動向について」と報告した私であるが、改めてこの辺を含め、石神・石仏を調べる、あるいは興味を持つ、といったあたりを触れてみたいと思う。

 もともとこの会の発足は、石神や石仏といったものを文化財の一つととらえたうえで、こうした文化財を知ろう、という初歩的な考えであった。そのため、現在でも底辺の部分においてまずはこうした文化財を多く見て、また把握しようという考えは変わっていないはずである。こうしたなか、石神・石仏といったものを過去の遺産的な見方をするため、地方においては年寄りが興味を示すもの、という印象が非常に強いわけである。とても若い者が興味を示すものではなく、年寄りの心の拠り所である、といった感覚が一般的のようである。したがって当然若い(地方の世界では若いというと40歳代ぐらいをいう)世代がこうした部分に興味を示すはずもないわけである。

 さて、地方における郷土研究は高齢化しており、若い人が入る、といった環境はどこにもない状態である。こうした状況は若い人の目をもそらしてしまう結果になり、一時学校教育の場で盛んとなった郷土学習というものも、地域に根差したものではなくなってきている。

 私もそんな状況を、若い人を大事にしない世界である、と指摘(註)したこともあったが、その私も若い世代とは次第に縁遠くなりつつある。特に「年寄りくさい」といわれる石神・石仏の世界において、これからどうしていけばよいのか、課題は多い。専門研究の分野については「日本石仏協会」が同じように悩んでいるので、その動向に注意したいのであるが、先の通信130号でも述べたように、この会では石仏総合誌をめざしていることは事実である。しかし、はたして世代交替できるような会員組織の基盤強化ができるか疑問でもある。たとえば、巻頭随想として会長の随想があるが、こうした随想は必要ないことであるし、「人・ひと」では役員の紹介を見開き二ページにわたっておこなっており、何を意図しているのかわからない部分でもある。こうした疑問があるなか、やはり研究団体であるならば、タウン誌的発想ではなく、いかに視野を広め、世代を交替していくか、という点が大事ではないかと思うわけである。

 こうした専門分野の総合誌への動きがあるなか、一つの視点として民俗学の視点による、石神・石仏へのアプローチの方法を述べたいと思う。ここ20年くらいの間に多くの市町村において、それぞれの地域を対象とした石造文化財調査を行っている。そのなかで対象とした年代は、文化財という呼称の範囲に入るもので、現代もなお建立される石造物は対象としてこなかったはずである。しかし、平出一治氏が本通信紙上に紹介しているように、現在でも道祖神が建立されているのである。安曇野=道祖神といった連想をする人も少なくない状況のなか、現代の道祖神信仰というものも存在するわけである。その建立の背景とは何なのだ、という点を民俗学からアプローチしていったら、新たな石造物信仰の背景が現れてくるのではないか、と思うわけである。ようは石造文化財を扱う場合、あくまでも文化財であって、現代を対象にしていないが、こうした部分を 「民俗学」といったとらえで調査していったら、逆に過去の造立の背景がわかってくるのではないか、ということである。

 いずれにしても若い人の目を向けるという課題について、多くの意見がほしいものである。
註.拙稿「『伊那路』に望むもの」『伊那路』第432号  上伊那郷土研究会