『遥北通信』135号(H5.9.1)

大人たちに管理される子どもたちの行事

三石 稔
 本来子どもたちによって行われていた行事が、子どもの減少やテレビゲームといった家の内で個人個人によって楽しめる遊びの普及とともに、次第に自主的に取り組むといった姿勢はなくなってきている。それは最近の話ではなく、もう何十年も前から傾向としてあったわけである。

 松本市内の本町では、1月10日、11日とあめ市が行われている。街の路地に社をもってきてお祭りをし、子どもが飴やだるまのほか、えびす大黒の金粉を塗った升などを売ったりするもので、もともとは男の子だけの行事であった。年長の者を音頭とりといって、この音頭とりが行事をしきり、売って儲けたお金は子どもたちの間で年別に差をつけて分配したわけである。ところが昭和35年ごろ、学校であめ市でのお金の配分を調べたところ、年の差があって特に年長のものがたくさんとっていることについて、不平等で好ましくないということになった。そこで学校の校長会では、町会長を集めどういうことなのか説明を受けたという。しかし、この風習が好ましくないということになり、翌年から子供会行事にするように決められてしまった[註1]。

 子どもがお金を強要するような行事は、かつてはいくつもあったものである。また、現在でもそのなごりはさまざまな行事にみられる。特に長野県内での道祖神にかかわる行事は、男の子がかかわっていたわけで、それらには同じ様な状況があったわけである。この松本市本町の場合、男の子だけの行事が以後男女一緒の行事になったわけで、このとき1月14日のサンクローまで男女一緒の行事になってしまったという。男の子が不足して男女一緒になっていく傾向はあっても、このように不平等であるといった意見から変更されたケースは少ないと思われる。

 同じ松本市中山埴原(はいばら)南にある胡桃沢村の道祖神では、宮南、胡桃沢、畑中、音頭川といった四つの常会と、宮の下常会の三軒が加わって道祖神をまつっている。ここでは2月8日に道祖神祭りを行っており、戦前は各家から人々が出て祭りをしたという。現在でも北、中、南組の三つに地域を分けてそれぞれの組から二人ずつ当番が出て当屋の家でお祭りをしている。これに加えて小正月にはサンクローの行事が行われているが、こちらは道祖神祭りをしている4つの常会と1常会の3軒を加えた祭祠集団が崩れかけている。もともと道祖神と関係のある行事であるから、祭祠集団は同じはずである。ところが、道祖神祭りの方が大人の祭りとすると、サンクローは子どもの行事であり、こちらの場合PTAという親の都合による集団によって地域割がされてしまい、例えばここの場合宮の下常会の家の子どもは、宮の下常会にある道祖神の仲間に組み替えされてしまっている[註2]。

 こうしたPTAとか青少年健全育成会といった大人の手の関与によって、子どもたちの行事が失われてしまったといっても言いすぎではないのである。したがって子どもたちだけによって組織が組まれた「子供組」といったものはほとんどなくなり、年々子どもたちの中で行事を引き継いでいくといった儀礼的なものもなく、完全に大人たちの管理によって行われているわけである。

 思えば10年ほど前、信濃毎日新聞の文化欄にどんど焼き行事について「子どもたちがそれを必要としているか……」というような記事[註3]が掲載されたことがあり、要するに大人たちが関与しすぎるために、子どもたちにとってその行事が生きているのかどうか……というような意味の記事だったと覚えている。このときわたしはこの記事に動揺し(なぜ動揺したのかよく覚えていないが)、当時「山村民俗の会」の代表をされていた岩科小一郎氏にこのことについて手紙を書いたことがあった。岩科氏は、伝統行事は必要にあるなし関係なく、それを次の世代に伝えるために今年行い、また来年へつなぐものである……と返答された。あらためて考えてみると、伝統行事としてはそれでよいのかもしれないが、形だけ残され子どもたちに実行意識のないものになった場合、それが行事そのものの衰退を招く結果になってしまうような気がするわけである。

 写真のワラウマヒキの場合、こうした大人たちの関与はもとより、この行事を見学に来る人々(ほとんどはカメラマンであるが)によって行事が左右され、形骸化された行事の代表のような気もするのである。しかし、他では見られなくなった行事であり、貴重であることに違いはないのである。一方子どもたちは、むしろ大人たちから行事を返してほしいかもしれない。事実そんな言葉を子どもたちから聞いたこともあるわけで、大人の関与というものも考え直す時期ではないだろうか。
註、
1. 松本市史民俗部門編集委員会『マチの民俗』 平成4年 P-141
2. 平成5年度松本市史民俗部門中山調査より
3. いつの新聞か明確ではないが、『道祖神信仰論』や『都市民俗論序説』の著者である国学院大学の倉石忠彦氏が書いたものであった。当時面識はなかったが、その後縁あって話をする中でそのことについて聞いたりしたが、なぜ動揺したかよく覚えていなかったため(いずれにしても気にいらないと思っていた)あまり突っ込んだ話はできなかった。