『遥北通信』138号(H5.12.1)

松本市で聞いた石投げについて

三石 稔

 わたしはここ数年「松本市史 民俗編」の聞き取り調査をしている中で、子どもたちの石投げについて何度か聞くことができた。もともと水が豊富な所に人々は住み始めたわけであり、川沿いに集落ができるという形は一般的であったであろう。わたしの生まれた上伊那郡飯島町本郷の実家のあるあたりは、天竜川の支流である与田切川沿いで、今でこそ古くからの家は段丘崖などに移り住んでいるが、かつてはこの川沿いにクサワケといわれるような家があったと聞いていた。結局は氾濫原ということもあって住居を移すわけであるが、現在のような河川整備が充実するまでは、河川の氾濫と隣り合わせながら生活していたわけである。そこまでして水に近い生活が望まれていたわけであり、水というものが生活になくてはならないものであったことを教えてくれるわけである。こうした河川沿いに住むということは、結果的に子どもたちにとっては川で遊ぶということが日常的になるわけである。

 たとえば川で魚を取ったり泳いだり、また、そこにある木々に登ったりと、遊びの舞台が川になっていた。松本市神林(かんばやし)は、鎖川という川を挟んで集落が展開しており、川にかかわる話をいろいろ聞くことができるわけである。そんな中で、石投げについて聞くことができたわけである。ここでは小正月のサンクロー(火祭りのことをこの地域ではサンクローと呼ぶ)の時に石投げが行われていた。川西は神林の中でも西はずれにある集落で、鎖川の左岸にある。ここではコデンといわれる水田の向こうにサンクローを作った。そこは隣の和田の太子堂という集落境にあたり、境には梶海渡(かじがいと)センゲ(堰=用水路のことをこう呼ぶ)が流れている。太子堂ではこのセンゲの向こう側にサンクローを作り、お互いけんかをしたという。小正月の火祭りでは隣の火祭りの集団とけんかをするということはよくあった話であり、よく聞く話では火のつけ合いというものがあった。ここではそうした火のつけ合いもやったが、石投げをしてけんかをしたという。みかん箱に鎖川の河原からちょうど投げごろの石を拾って詰めて持っていき、石投げをしたようである。一方、川西と鎖川を挟んで右 岸にあたる川東にもサンクローは作られるわけであるが、川西ではいつも太子堂とけんかをしたという。

 同じ神林でも寺家(じけ)では、奈良井川にある村井の橋を境に、川向こうの芳川と石投げをしたという。また、梶海渡では和田の下和田と石投げをしたといい、どちらかというと神林の村内の集落ごとにけんかをするというよりも、他村の集落とけんかをするという形が一般的であったようである。

 こうした小正月の石投げについて、他の地域に事例があるかまだ調査中であるが、あまり民俗関係の報告書に報告されておらず、どの程度分布しているかつかめていない状態である。同じ松本市の中山は、神林とは方向の違う東の山裾にある村である。ここの埴原西の尾池という所は、牛伏川を挟んで寿と接する境の集落である。ここでは七夕や盆のころに、寿の白姫という集落と子どもたちが石投げ(石合戦という)をしたという。むら境にある尼寺のあたりでやったということで、相手方が強かったためよく逃げ帰ったものであると、赤羽沖太郎さん(大正4年生まれ)は話してくれた。ここでは小正月のサンクローではなく、夏に石投げが行われていたということで、特にどの日にやるというわけでもなく、「さあやるぞ」といった感覚で石投げが始まったようである。この季節は牛伏川に尾池と白姫の子どもたちが集まり、魚をとったりして遊んだという。そのため、たまたま白姫に水田を持っていた赤羽さんにとっては、白姫の子どもと交流が強かったと話している。こうして川にかかわりながら子どもの遊び場が展開されていることで、あらためて自分の子どものころを考えてみると、遊びの一つと して石を投げるという形があったことを思いだす。しかし、それは石合戦というほどのものではなく、ただ遊びの一片でしかなかったような気がする。

 さて、現在のところ松本市で聞いた石投げの事例はそんなところである。そこで他にこうした石投げについての報告はないものかと思っていたところ、山梨県に石合戦の事例がいくつもあることを知った。山梨県の故中沢厚氏は「石投げ合戦考」を『谺』40号(昭和43年)、50号(昭和48年)に発表している。中沢氏は新左翼の学生や労働者が佐世保のエンタープライズ寄港阻止のデモで、はじめて角材と投石で武装して戦っている姿を見て感動し、一時期左翼的な政治活動に没頭したことがある。このあたりの記憶と少年の日に笛吹川のほとりで体験した石投げの記憶あたりから、「つぶて」の問題意識を持ち、石合戦の研究が始まっている。石合戦の原点まで探った中沢氏の報告をここで簡単に紹介してみる。

 中沢氏の子どものころ(大正末)、夏になると一日と欠かさず大勢の仲間と笛吹川の河原で遊んだ。そんな時に対岸の村の子どもたちと激しい石投げの応酬をした。石ぶんという投石具を持ってぶんぶん振り回しながら対岸をめがけて飛ばすわけである。特にけんかの原因なるものがあるわけでもなく、そこに小石があるから……程度のことから始まる。この原因はいったい何であったのか、そう考えた中沢氏は様々な石投げの話を収集した。そのうちに石投げのことをショウベンキリと呼んでいたという話を聞き取り、五月節句ころにも行なわれたという石投げと関連させてショウブタタキと同じ行為ではないかと考 えた。ショウブタタキは五月節句に菖蒲を束ねて土を打ってあるく子ども行事であり、十日夜のワラデッポウなどと同じ様なことをする。村中をまわる際に村境で隣部落とけんかをし、負けると作物が悪いなどともいわれ、上総の山武郡などでは瓦や石を投げ合って相手方の子どものはちまきの菖蒲を切るという争いをしたという。

 ショウブタタキといわれる行事は現在でもときおり残存している事例を見るが、石投げとショウブタタキが関連して行われている場所はまずないだろう。なぜなくなってしまったのかというと、やはり危険であるという判断によるためであろう。中沢氏は弁味蓼子という人が書いた『行事精説』という昭和十七年に刷られた本を古本屋で探しだし、そこに「印地」のことが書いてあることを知った。そこの五月節句の項に

 
「印地と言うは児童が左右に分かれ互いに礫を打ち合い、後に菖蒲刀を用いて接戦するのであるが、これは怪我をしたり危ないというので止めたらしい」


 こうして印地といわれる石投げの姿が消えていったようである。

 ショウブタタキとの関連をつきとめた中沢氏は、多くの情報を得ながら石投げを一つの解説に完成させていった。その解説とは次のようなものであった。

「しょうぶはたき」
長野県下高井郡木島平村稲荷(H1.6.4)
 古来、五月五日、端午の節句を中心にして、生気溌刺の到来を祝う諸行事が全国的にあった。その内の一つに、菖蒲叩きあるいは菖蒲切りがあった。菖蒲の葉を用いて争うことによって邪気を払う。またその勝ち負けで吉凶を占ったり村と村の決めごとをした。行事の主役は子どもたちで、子どもは楽しい習俗として来る年も来る年も熱演してきたのである。菖蒲の葉であんで刀を作って打ち合ったり、菖蒲の葉であんだはちまきをして石を投げ合ったり、たしかに勇壮であるが危険をともなう。それに信仰的意味合いも薄れ、すでに江戸末期には禁止のおふれが出されるようになったのだ。しかし元気あふれんばかりの少年たちが、こんな魅力的、躍動的な行事を忘れることができるものではない。禁じられた遊びはなおのこと捨てがたい。そこで子どもらは五月の季節を順にずらし、新たに普及してきた水泳ぎとかみ合わせ、しかも一夏中の河原の遊びとして復活した。封建制のもたらしたよそ者意識、排他精神あるいは村々の利害対立の関係なぞ一切がその中に解消されていたかもしれないが、それはかえって、生活の知恵とも本能ともいえる子どものよさである。

 このように述べている。中沢氏は後に「どるめん」3号において「石投げ習俗と成人戒」を発表しており、ここでは石投げが五月の節句だけに行なわれたものではなく、小正月などにも行われていたことを事例に、成人戒と結び付けている。石で傷つくことにより肉体的試練、加えて石の霊力による浄化作用があったのではないかといっている。また石投げの音が神の来訪を伝えているともいっている。

 現在松本市で聞くことができる石投げ習俗が、果たして同様の意味を持っていたのか資料不足である。危険であるがために現代の子どもたちには絶対にあり得ない遊びである。しかし、現在聞き取ることができる話にも怪我をするほど盛んにやったということは聞かない。再び調査をする中で遊びとしての石投げがもう少し実態としてつかめればと思う。
註.参考文献『石にやどるもの』中沢厚著 平凡社