『遥北通信』139号(H6.1.1)

飯島町高尾部落におけるホンヤリの変容

三石 稔
 長野県上伊那郡飯島町の高尾部落は、中央アルプス南駒ケ岳の東側麓にある。この部落には双体道祖神が一基ある。高倉社跡に建っているもので、青面金剛や馬頭観音などとともに並んでいる。高倉社は明治時代末に無格社であった同社と、岩間部落の三熊野社を合社して石上神社ができるまで、高尾部落の中心的な空間であった。かつてはここに樅の大木があったといわれており、また大正4年から昭和25年まで高尾部落の集会所が置かれていた。このように部落の中心であったわけであるが、集会所は昭和25年に移転している。

 上伊那郡南部の飯島町や中川村あたりから下伊那郡にかけては、正月の火祭りをホンヤリと呼んでいる。このホンヤリについて高尾部落では現在集会所の前にあるゲートボール場で行なっている。芯木を建てて円錐状に正月の松や山から切ってきた木を積んでおり、芯木の先にはダルマがいくつもつけられる。どこでも見ることのできる一般的な火祭りのやぐらであるが、このあたりでは比較的立派に作っている箇所である。ところで、現在はかつての高倉社から少し東に行ったところの集会所の庭でホンヤリをやっているが、以前は高倉社のあった場所で行なっていたという。先程も述べたようにそこには道祖神があるわけで、かつては道祖神の近くで行事が執行されていたわけである。最近はどこでも火祭りをする場所を変えて行なっている場合が多い。特に道祖神の火祭りという意識を強く持っている長野県全域における傾向に対して、ホンヤリ地帯である飯島町から南の地域では、道祖神の祭りと必ずしもかかわっていないという指摘が竹入弘元氏によって以前より報告されていた (『伊那谷の石仏』や『上伊那郡誌民俗編』などに詳しい)。しかし、地域によっては道祖神と関与する場所もあって、他の地域に比較すると道祖神の祭り=正月の火祭りの図式が薄い傾向があるといったほうがよいだろうか。ところがかつてのホンヤリも、子どもたちの学校行事の一環になりつつある状態の中で、行事の一人歩きといった形に変容してきている。

 遥北通信第135号で私が述べたように、本来子どもたちによって執行されていた行事が教育現場よりの指導で規制されたり、また当然のことながら時代の変化に伴う遊びの変容によって、楽しみを感じる場の変化があったりして、これらの行事は衰退してきたわけである。ところが、近年の教育方針の変化だろうか、あるいは親の教育観の変化であろうか、子どもたちの行事を自主的に決めさせてその中で伝統的なものも残していこうという考えが強くなってきている。そんな中で子どもたちに本来の行事が伝承されていくのかというとそうではなく、完全に一人歩きしている行事もあるわけで、特にどこでもやっている正月の火祭りは、画一化の一途をたどっているようである。例えば高尾の子どもたちは、ホンヤリとは言わずにドンドヤキと呼ぶわけであり、道祖神の存在すら知らないわけである。

 さて、高尾部落におけるホンヤリの準備について簡単に報告しておく。まずホンヤリの行事が児童会の行事の一つとして計画されるのは、年に二度ある学校での耕地児童会の中で決められるという。ちなみに耕地児童会は長期休暇の前、したがって夏休みと冬休みの前に開かれる。その内、12月の耕地児童会によって以後の部落単位で行なう子どもたちの行事が決められるわけである。この耕地児童会(耕地と部落は同じ意味であるが、私の子どものころは耕地という呼び方よりも部落という呼び方が一般的に多かった。最近は部落という言葉は使わず耕地という呼び方を使っている。どういう経過でこうなったかは知らないが、同和問題に起因するのだろうか。)には、耕地児童会長の親が同席し、行事決定に関与するという。したがって、ホンヤリの準備を中心になって行なうのは、この耕地児童会長の親になるわけである。

 準備は冬休み中の7日に行なわれることが多い。朝のうちに子どもたちが家々をまわり、松飾りを集めてくる。そして午前中の内に子どもたちの親が出てホンヤリのやぐらを作るわけであるが、この間子どもたちの役割は芯木の先にダルマをしばり付けることぐらいで、ほとんどのこどもたちはまわりで遊んでいるだけである。こうしてホンヤリのやぐらが完成すると、集会所に集り高尾地区では古くから続けられているという「天神さま」を行なう日を決める。やはり大人が参加するために、子どもと大人全員がそろったところで日程を合わせるというのである。だいたい1月の下旬の日曜日があてられるわけであるが、大人たちの都合を聞いて調整するわけである。

 こうして準備は終わるわけである。このホンヤリが焼かれるのは1月14日の午後7時ころからである。子どもたちは餅を持ってきて焼いたりするわけであるが、この餅を食べると健康になるということを子どもたちはいっており、また燃え残りの木を持って帰ることも知っていた。子どもたちはこれをたき木にすると良いというようなことをいっていたが、ここらでは他にこの木を屋根に放り投げておくと火事にならないとか、厄よけになるという。

 正月の火祭りは画一化の傾向の中、ドンドヤキという呼び方が一般的になってきた。このあたりでは必ずしも子ども主導型の火祭りであったわけではない。事実私が子どもだった30年くらい前のホンヤリも、子どもの手で執行された行事ではなく、大人たちの手による行事であったわけである。衰退の一途をたどった火祭りも、各地で復活するとともに、大型のやぐらを組むところが出てきている。伝承ではなく、外部から情報として得たかたちを行事として継続していく、というのがこれからの行事の姿なのだろうか。

 飯島町七久保の新田部落北部地区では、今まで1月14日に行なっていたホンヤリを、今年から15日変更するという。毎年14日の午後3時から燃やしていたが、勤め人の多くなった近年は大人が参加することができないため、日を変更することにしたというのである。毎年準備を中心になってやっていた湯沢喜代七さんは、伝統の継承とは古い習慣を守りながら新しい感度で対応することだといっている。また、1日ぐらい日をずらしても道祖神様は怒るまい、むしろ大勢の人たちが集まれば喜んでくれるはずだ、ともいっている。ぜひ伝承として本来のホンヤリの形や知識も子どもたちに伝えていってほしいものである。