『遥北通信』136号(H5.10.1)

奈良市般若寺町般若寺の石造物

高木英夫

 般若寺は飛鳥時代に高句麗僧慧潅(えかん)法師によって開創され、そののち天平18年(746)にいたって、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の定格寺に定められた。また平安時代は寛平7年(895)のころ、観堅僧正が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたったという。ところが源平の争乱に際しては、治承4年(1180)平重衡(しげひら)の南都焼討ちにあい、伽藍はすべて灰燼に帰し、礎石のみが散在する悲運に見舞われた。

 しかし、鎌倉時代にはいって般若寺は再生する。荒廃のなかからまず十三重大石塔が、名もなき民衆の信仰の結晶として再建され、続いて良恵(りょうえ)上人が本願となって十方勧進し、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかった。さらに文永4年(1267)には叡尊上人発願の文珠菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、かつての大般若寺の偉容がみごとに復興したのである。

 この十三重塔は、現在国指定の重要文化財として現存している。花崗岩製で高さ12.6bと高く、本堂前に建っている。特に大きな基壇を設けた上に低い基礎を置き、基礎上面に塔身の受座を作る。塔身四隅に面取りをおこない、四面に二重円光背を線刻して、蓮華座に座す顕教四仏をごく浅い浮き彫りで表現している。その配置は、東に薬師、南に釈迦、西に阿弥陀、北に弥勒である。屋根石の下一重目は特に大きく造られて安定感を出し、上層屋根石にかけての逓減率はみごとで美しい旋律を感じさせる。軒反りは緩やかに左右にのびて力強く反り、軒下に一重の垂木型を造る。二重目は江戸時代の後補になる。相輪は近年複製したもので、旧物は別に保存してある。

 伝説によると、天平7年(735)聖武天皇が国家鎮護のため宸翰(しんかん)の紺紙金泥書の大般若経と金銅釈迦像を納めてこの塔を造立されたと伝え、江戸時代元禄年間に修理のおり、塔内より金銅釈迦像を発見している。しかし、石塔の様式は鎌倉時代の特色を示すものであり、昭和39年、解体修理されたおり、第四重目より出現した法華経外箱に「□(建)長五年(1253)癸丑卯月八日奉篭之」の墨書が見え、十三重塔の造立年代を知る貴重な資料となった。そのおりに出現した主なものは、第一重より金銅舎利塔・金銅五輪塔・水晶五輪塔(いずれも鎌倉時代)、第四重には、宗版細字奉華経(一部七巻)と建長銘外箱と明治時代の石塔再建記など、第五重からは奈良時代の銅造如来像と、鎌倉時代の仏像(大日・十一面・地蔵)、その他である。第八重からも鎌倉時代の銅造十一面観音像をはじめ、江戸時代の木造仏・経巻・曼茶羅などが出現した。

 十三重塔から、このようにおびただしい納入品が発見された例は珍しく、石塔が造立されてからも室町時代の文明・延徳、さらに永禄の兵火によって被害を被っており、そのたびに修理されてきたことが、これらの出現品によって理解できる。建長五年ごろの造立になることが判明することによって、この石塔の作者は、伊派石工の伊行末(いぎょうまつ)が老齢期(東大寺法華堂石灯篭造立の前年)に造立したと思われ、嫡男行吉をはじめ、伊一派が総力を傾けて造立した十三重塔と考えられ る。そのことは、境内に建つ二基の笠塔婆の銘文によっても推測できるのである。

 この笠塔婆二基も国指定の重要文化財に指定されている。花崗岩製、高さ4.8bで境内の東側に建つ。もとは般若寺の少し南にある墓地入り口にあったもので、明治26年ごろここに移されたものという。この笠塔婆については、江戸時代の述作者も注目し、『大和名所図会』その他に種々諸説を掲載して修復に携わったが、正元2年(1260)7月11日に行末は死去した。そこで嫡男の伊行吉が、父の一周忌にあたる弘長元年(1261)7月11日に卒塔婆二基を建立し、一基は父の菩提を弔い、別の一基は現存する母の善行のため、また般若寺大石塔(十三重塔)も伊行末一派の造立になることを示し、その功徳によって、一切衆生とともに、極楽の世界に生をうけんことを願うことを述べている。

 この他境内には、本堂前に六角型石灯篭や写真の三十三所観音がある。三十三所観音は、元禄16年(1703)山城国相楽郡の寺島氏が、病気平癒の御礼と体の不自由な人に巡礼の便をはかり、造立寄進した西国霊場観音である。
参考文献 『奈良県史−石造美術』清水俊明、名著出版