『遥北通信』134号(H5.8.1)

下伊那郡上村の筆書き道祖神

三石 稔
 長野県下伊那郡上村は、遠山川や上村川添いの山肌に住む舞台を求める、平坦地のほとんどない村である。例えば遠山川添いの下栗では、傾斜度三十度近い畑地を生産の場としているわけである。平坦部に住む人々には考えられないような土地を、有効に利用しているわけである。そこでは、ヨソモノが畑地を歩くことを嫌う。なぜかというと、そこにある耕土が、慣れないものが歩くことで川底に落ちていってしまうからである。一度落ちてしまった耕土を、再び上まで運べるものではない。

 こうした舞台に住む人々には独特の信仰がある。もともとこの谷に入るには、天竜川と遠山川の合流点から入る道が一般的であって、それ以外には飯田市上久堅(かみひさかた)から小川路峠越えに歩いて入る道が、最も利用されたものである。また、北側に隣接する下伊那郡大鹿村から地蔵峠を経て入る道もあった。しかし、自動車というものが交通手段になり始めた時代には、ほとんど天竜川と遠山川が合流する下伊那郡天竜村平岡から、現在の南信濃村を経て入る道しかなかったわけである。郡の中央部にある飯田市から行くにも日帰りは大変だった地域である。戦後下伊那郡喬木村から赤石林道が開かれ、交通事情も大きく変わり、人々が容易にこの村に入ることができるようになった。また、まもなく三遠南信自動車道のトンネルが開通することにより、さらに身近な地域になりつつある。

 さて、前置きが長くなってしまったが、こういった地域の道祖神とはどういったものなのだろうか。ここでは、この地域にあるめずらしい筆書きの道祖神を紹介する。

 上村と下流域にある南信濃村は、総称して「遠山谷」と呼ばれている。この遠山で道祖神を探した場合、数が少ないことと、信仰の薄いことに気がつく。特に下流域の南信濃村では、一体の道祖神もなく、人によっては観音様を道祖神と呼んだりしている状態である。ここでは正月の松飾りを焼く火祭り(ドンドヤキ)が、最近になって行われるようになったといわれ、これだけ道祖神が共通語になった時代背景から考えると、道祖神はありますか、と問えば、路傍に立つ石仏をさして道祖神と答えても何等おかしくないのである。そう考えると、南信濃村には長野県内で一般的にいわれる道祖神信仰は、なかったともいえるだろう。ところが遠山川をさかのぼった上村には、数は少ないが道祖神がある。ここで周辺地域の道祖神数を調べてみると、北側の地蔵峠を越えた大鹿村では13体の道祖神があり、内2体は双体道祖神である。しかし、それらは大鹿村の中央より北側にあって、上村よりの南側には道祖神がないのである。一方先にも述べた西側の小川路越えの地域には、飯田市上久堅に2体、下久堅に4体[註1]といったところである。ちなみに小川路峠を下った上久堅にある道祖神は、双体1体と「 道禄神」碑1体である。

 このような周辺の状況も把握したうえで上村の道祖神をみてみる。飯田風越高校郷土班が1985年に文化祭で発表した「下伊那の道祖神」によると、上村には2体の道祖神がある。その他に竹入弘元氏が『伊那谷の石仏』で紹介した上村上町(かんまち)の筆書き道祖神を加えると3体ということになる。飯田風越高校郷土班ではこの上町の道祖神について、確認できなかったと報告している。わたしはこの3体について確認してみた。このうち小川路峠道に沿った清水という地区にあった道祖神については、紛失したという話を聞き、調べてみたが見つからなかった。また、飯田風越高校郷土班が確認できなかった道祖神については、地元の山口儀高さんに教えていただき所在がわかった。『伊那谷の石仏』で紹介されているように、赤石林道を下っていって、上町に着く間近の川の向こう側の巨岩の上に乗っていた。たしかに墨で「道祖神」と書かれているのである。高さ37センチの自然石で、遠くから見ると地震でもくると転げ落ちてしまいそうな感じである。この道祖神についても地元の人に忘れられているといった感は否めない。ここでは松飾りを焼く行事を「どんど焼きさぎっちょ」と呼ぶといい、小 正月の14日に行われるという。14日というと、先に「遥北通信」で紹介したこともある「御祝い棒」がある日である。この1年間に嫁を迎えた家に子どもたちが行き、ハチンジョのついた祝い棒でその家の縁側を叩くという行事である。他の同様の行事を今日まで伝承している場所では(南佐久郡川上村や下水内郡栄村)、道祖神祭りの一環として行っているものであり、必ず火祭りとつながっているわけである。ところが、ここでは火祭りとのつながりもなければ、道祖神とは何等関係がないともいわれている。この辺の点については、上村へ道祖神信仰が入ったルートや、周辺地域の信仰圏なども考慮して調査しなくてはならないわけである。

 ところで筆書きの道祖神であるが、「伊那谷の石仏」では他に飯田市鼎町名古熊、同鼎町下伊那農業高校東方、上伊那郡高遠町東高遠さいのかみ坂にあると述べているが、わたしは未見である。なぜ彫るのではなく、筆書きなのだろうか。竹入弘元氏は、かつて双体像や文字碑を建てる風習の生まれる前は、神域を示すため、あるいは神の依代として奇石を建てたもので、やがて誰がみても判るように文字を刻むようになったといっている。そのうえで墨書き道祖神は過渡期のものではないかと述べている。それにしても珍しいもので、今回上村のもう1体の道祖神をたずねたところ、やはり筆書きの「道祖神」(写真)であったため、どういう意味があるのだろうと改めて考えさせられたわけである。この道祖神については、飯田風越高校郷土班の報告では、コールタールで書かれた「道祖神」と紹介しており、「交通安全」と書かれていたことも紹介している。しかし、わたしが見たものには、「交通安全」はなく、コールタールで書いてあると断言もできなかった。おそらく薄くなった字をなぞったものであろう。ここの道祖神については、350年前に流れついた道六神がなくなったため、その代わりに建 てたものといわれている。信仰などについて聞きとってないので、そのへんについてはもう少し調査をしなければならない。

 写真の道祖神は碑高55センチのもので、上町から地蔵峠に向かって程野神社を過ぎて少し行ったところの右手、地蔵堂跡にある。
註、
1.長野県飯田風越高等学校郷土クラブ『風越山−第30号−下伊那の道祖神』 1985年より