平成23年長野県民俗学研究動向

 この研究動向は、信濃史学会『信濃』第64巻第6号隣県特集号「長野県地方史研究の動向」より、民俗学関係について転載しています。研究動向の執筆は細井雄次郎氏(長野市)。なお、著書論文一覧については、HP管理者が作成している。

 平成23年の長野県の民俗研究は例年と同様、各研究団体の活動を中心に行われた。そのなかでも民俗学研究の方法、研究者の姿勢など、これからの民俗学のあり方について述べた論考が多く見られた。その背景には、以前からも指摘されてきたことだが、柳田国男が民俗学の対象として取り上げたいわゆる民俗事象が急速に消滅していくなかで、民俗というものが実在する前提でそれを調査研究することが民俗学と考えてきたそれまでの姿勢を反省し、これからの民俗学のあり方について模索することが、県内においても意識されるようになってきたためと思われる。
 伊那民俗学研究所の記念講演録として『伊那民俗研究』第19号に収載された福田アジオ「「野」の学問としての民俗学」もその一つである。ここではこれまで百年の民俗学の歩みを前半の50年を在野の学としての時代、後半50年をアカデミズムの学としての時代に分け、在野の学の頃の民俗学研究者にあった、なぜ民俗学を研究するのかという動機(志)が、民俗を研究する学問としての枠組みが確立されたアカデミズムの時代になると、なくなってしまったことを指摘し、今の民俗学には在野の学の頃の研究者が持っていた、主体的な研究動機が必要であると述べている。
 実在するとされてきた民俗事象が消えていく中で、今後は各研究者が柳田のように自分で民俗を見つけていかなくてはならない。そのとき民俗学を研究する者はその動機についてきちんと向き合って行かなければならないとの指摘である。
 『長野県民俗の会会報』32号に掲載された松崎憲三の「柳田民俗学の特徴とその継承」は柳田国男の『明治大正世相篇』から、これからの民俗学研究者のあるべき姿を論じている。松崎は民俗学が諸科学から方法論に弱い、理論に弱いとされるのは、民俗学が人々の社会の歴史的変遷を踏まえて現状を捉え、その問題点を把握・解明するには、伝統的に理論的説明よりも事実を叙述する方がより有効であると考えてきたためであり、外部からの批判に対し性急に理論化する必要はないとする。その上で『明治大正世相篇』で柳田がみせた、実感の学であり、情動を通して生活の変化を探る学問としての民俗学の姿勢を継承することが大事であると主張する。
 以上の論考は中央の研究者によるものだが、県内の研究者からの発言も見られた。福澤昭司の「聞き書きの作法」(『長野県民俗の会通信』225)は民俗学の主要な調査方法である聞き書きの限界と可能性について述べたもの。短期の調査で成果を求める民俗学を、調査不十分と言う民族学に対し、「半年一年住み込んだとしても、行きずりの旅人には話せないこと、話してもわかってもらえないとあきらめられていることが確かにある、と思う。ましてや異文化ならばなお更のはずである。」として、調査の質は調査にかかる時間ではないとする。そのうえで同一の文化に育つ者の間で行われる聞き書き調査においては話者の話に共感できる聞き手の感性を研ぎ澄ますことが重要であると説く。
 福澤同様聞き書き調査について、諏訪大社の御柱祭での調査を例に論じているのが石川俊介の「聞きづらい「話」と調査者」(『日本民俗学』268)である。諏訪大社御柱祭のフィールド調査で遭遇した、御柱祭当事者が話す「死傷者の話」が持つ意味を、調査する側とされる側のコンテクストのなかで考察したもの。石川によれば当事者の間で流通する「死傷者の話」は当事者間においては御柱祭に求めるイメージ(ここでは奇祭としての御柱、あるいは勇壮・荒々しさ)の共有の役割を果たし、外部に向かってはイメージの流布の役割を果たす「記号」であり、事実ではないとする。逆に事実として死傷者が出た場合は、「恥」として隠され話されることはないという。このような死傷者をめぐる当事者の感覚は、調査者が調査を通じ当事者の持つ感覚や価値観を理解できて初めてわかるものであるとする。しかし同時に当事者の感覚や規範に同調することで、調査を自制してしまうという問題も生まれることを指摘している。この場合では「記号」としての死傷者の話は聞く事ができるが、実際の死傷者をめぐる聞き取りは不可能であるとの感覚である。その上で、それを乗り越える手がかりとして調査を調査者と被調査者との共同作業と捉える関係性の構築が必要であると説いている。
 このほか野本寛一「峠越えの時空」(『伊那民俗研究』19)は、直接民俗学のあり方について論じたものではないが、その主張は今までみてきた論考と相通じるものである。野本はこの中で近代から高度経済成長期以前までの、青崩峠を歩いて越えて行った人たちの記憶を聞き書きにより丁寧にすくい上げ、高度経済成長のモータリゼーションにより喪失してしまった峠越えの道を歩くなかで感じた感性や思いが、今の人々の心や人生を深く豊かにするものであるとして、当時の人々の感性や感覚を措きだす民俗学が現代に果たす役割の重要性を指摘している。
 ところで、平成23年3月11日に起きた東日本大震災とそれに続く原発事故、また県内においては翌3月12日に下水内郡栄村で起きた大きな地震被害は、我々に大きな衝撃を与えた。そのためこれらの災害に関しての論考もいくつかみられた。岩田重則の「死と葬送の現在と未来」(『伊那民俗研究』19)は伊那民俗学研究所で平成23年5月に行われた記念講演録。岩田によると当初は「現在進行形の葬送の変容」を述べる予定だったが、講演前に起きた東日本大震災をうけ、「のんきにふつうの話をしてよいのか」との思いに駆られ、講演内容を変更したとしている。そして講演では、東日本大震災で家族を亡くした人たちの思いについて触れ、未曾有の災害や戦争などが生み出した大量死に対する葬送や墓制、死生観といった研究は見過ごされていたことを指摘し、非業の死を遂げた大量の霊に対し、それをどのように受け止め、継承していくのかについて問題提起を行った。
 また中村慎吾の「デマから都市伝説の発生過程を考える」(『長野県民俗の会通信』223)は、東日本大震災直後に発生したチェーンメールや噂話の発生過程から、都市伝説発生のメカニズムを考察している。
 先述した岩田の講演録の中では、東日本大震災以前の災害についても言及があるが、桜井弘大の「新型インフルエンザの伝承と民俗」(『伊那民俗』84)は、大正7年から数年間流行し、多くの病死者を出したスペイン風邪を経験した南信濃村の人々の生々しい記憶を報告したもの。これを読むと岩田が指摘するように、大量死の死者に対する対応が日常のそれとは全く異なっていることがわかる。特に感染死という現実は、死者を生者に害をなす災厄の根源として扱わせ、そこには死者の尊厳がみられないことが話者の口から生々しく語られる。また桜井が指摘するように70年以上前の出来事が色あせることなく語られる様子からは、この出来事が当時の人々にとって大きな衝撃であったことを教えてくれる。それを踏まえたうえで、非科学的とされる民俗的な対応が、当時の状況下で真剣に執り行われていたという事実をみれば、その行為は当事者にとって決して非科学的と評されるようなものでなかったことが素直に理解できるのである。まさに実感の学として叙述をする民俗学の力があらわれている報告である。
 このほか、民俗事例が豊富な道祖神信仰に関する論考も多い。道祖神研究の第一人者である倉石忠彦の「道祖神信仰系統樹の試み」(『文化財信濃』38-3)は、さまざまな要素が複雑に絡み合っている道祖神信仰を総合的に把握するため、道祖神を名称・神体・祭場・機能の要素ごとに系統を明らかにし、それらを統合して道祖神信仰の系統図を作成する試みを行っている。倉石にはこのほか「道祖神行事の形成」(『道祖神研究』5)、「道祖神信仰と石造物」(『日本の石仏』227)がある。
 道祖神信仰に関するものにはこのほか、安曇野・松本平・上伊那の地域で正月に行われる柱立ての行事について詳細な調査を行い、柱立てと小正月の火祭りとの関係を考察し、両方の行事とも、本来は厄払いの意味を強く持った行事であったとする浜野安則の「道祖神の柱立てと火祭りとの関係」(『信濃』63-1)や、倉石がかつて指摘した安曇野地域に見られる夏の道祖神祭りについて考察した巻山圭一の「信州安曇野夏の道祖神祭りとは何か」(『信濃』63-1)などがある。巻山は松本周辺に見られる正月の初市と道祖神の御柱立てとが場所や日時が近接するため、市神と道祖神との習合が見られることを指摘、この市神と道祖神の融通性をふまえ、夏の道祖神祭りはかつて行われていた盆市の市神に対する祭りが、道祖神の祭りとされるようになったものと推測している。
 そのほかのおもだったものとして、松本ぼんぼんについて近世の様々な文献からその由来や発祥元、伝播経路やその時期について考証した木下守「ぼんぼんのこと」(『長野県民俗の会会報』32)や、島内にある犬飼山御嶽神社と八滝神社に祀られている石仏群の詳細な調査を通し、近代における当地の御嶽信仰の様子について考察した小原稔「松本市島内の御嶽信仰系神社」(『長野県民俗の会会報』32)、戸隠の宿坊に残る白澤の版木の調査を通して、近世の白澤図の流布について考察した熊澤美弓「信州戸隠宮本旅館蔵白澤避怪図の図像的検討」(『信濃』63-7)などがあった。
 なお今回も未紹介の論考・報告が多くなってしまった。それらのものを含めたリストが三石稔氏のホームページに掲載されているので、詳しくはそちらを参照願いたい。この稿を書くにあたっても参考にさせていただいた。ここに記して御礼申し上げる。

以下に刊行物・著者・論文・報告等を一括して掲げる。

総論

  1. 高原正文『安曇野史への招待』信毎書籍出版センター
  2. 神村透「長野県木曽郡木曽町旧三岳村公民館所蔵写真集『文化財資料』『文化財基礎調査資料』」(『信濃』63-11)
  3. 木下守「『長野縣町村誌』という資料」(『長野県民俗の会通信』221)
  4. 木下守「シダレザクラのこと」(『長野県民俗の会通信』222)
  5. 木下守「「歴女」と「アンノン族」」(『長野県民俗の会通信』225)
  6. 倉石忠彦「都市の伝承者」(『長野県民俗の会通信』225)
  7. 桜井弘人「祭りの記録化とその必要性-遠山霜月祭りのDVDと報告書の完成にあたって-」(『伊那民俗』87)
  8. 寺田一雄「柳田国男の『信州随筆』研究21 飯田の枝垂れ桜」(『伊那民俗』86)
  9. 福澤昭司「聞き書きの作法」(『長野県民俗の会通信』223)
  10. 福田アジオ「「野」の学問としての民俗学」(『伊那民俗研究』19)
  11. 細井雄次郎「長野県地方史研究の動向 民俗学関係」(『信濃』63-6)
  12. 松崎憲三「柳田民俗学の特徴とその継承~『明治大正史世相篇』を通して~」(『長野県民俗の会会報』32)
  13. 三石稔「現代版「話を聞く会」の試み」(『長野県民俗の会通信』221)
  14. 三石稔「オフネに惹かれて-第一七八回例会報告-」(『長野県民俗の会通信』226)

衣生活・食生活・住居

  1. 若林徹男「川魚」(『伊那路』657)
  2. 田口計介「馬屋と猿」(『伊那路』657)

生業生産

  1. 片桐みどり「飯田町の食生活を支えてきた杉屋豆腐店 関口豊さん・千代さんにお聞きする」(『伊那民俗』86)
  2. 楯英雄「木曽御料林における山仕事-杣夫・大井代次郎氏聞書き」(『あしなか』291・292合併)
  3. 寺田一雄「下伊那の養蚕の歩みと現状」(『伊那』992)
  4. 寺田一雄「今も続けている川路牧内辰明家の養蚕」(『伊那』992)
  5. 山岸貢「帰ってきた「村の鍛冶屋」」(『伊那路』657)
  6. 若林徹男「苗取り」(『伊那路』652)
  7. 若林徹男「「むら」なおし」(『伊那路』653)

交通交易

社会生活

信仰

  1. 小原稔「松本市島内の御嶽信仰系神社-犬飼山御嶽神社と八滝神社-」(『長野県民俗の会会報』32)
  2. 木下守「第一七八回例会に参加して」(『長野県民俗の会通信』226)
  3. 木下守「玄向寺開基の妄想」(『長野県民俗の会通信』226)
  4. 窪田雅之「個人建立の道祖神碑について(二)」(『長野県民俗の会通信』222)
  5. 窪田雅之「長野県筑摩野・安曇野における新たな神々の登場-新しい道祖神碑の建立の動向と背景-」(『道祖神研究』5)
  6. 倉石忠彦「長野県における道祖神信仰」(『地域文化』96)
  7. 倉石忠彦「道祖神信仰と石造物」(『日本の石仏』137)
  8. 倉石忠彦「道祖神信仰系統樹の試み」(『文化財信濃』145)
  9. 倉石忠彦「道祖神行事の形成」(『道祖神研究』5)
  10. 中崎隆生「味噌薬師と味噌なめ地蔵」(『伊那路』648)
  11. 中田亮「俗信の発生-タナバタ祭の禁忌を事例にして-」(『信濃』63-11)
  12. 名倉愼一郎「篤い信仰が息づく桃源郷、水窪-水窪の民俗調査から-」(『伊那民俗』87)
  13. 浜野安則「道祖神の柱立てと火祭りとの関係-安曇野・松本平・上伊那の事例から-」(『信濃』63-11)
  14. 巻山圭一「信州安曇野 夏の道祖神祭りとは何か」(『信濃』63-11)
  15. 矢崎晴美「飯田市鼎下山宝暦庵における「厄除け」祈祷行事」(『伊那』994)
  16. 矢澤喬治「松島神社の臼と杵」(『伊那路』657)
  17. 涌井二夫「愛宕信仰と片塩の愛宕さん」(『高井』175)」

民俗知識

  1. 倉石あつ子「大震災通信①-ともかく揺れた」(『長野県民俗の会通信』223)
  2. 倉石あつ子「大震災通信②」(『長野県民俗の会通信』224)
  3. 倉石あつ子「大震災通信③-うわさ-」(『長野県民俗の会通信』225)
  4. 倉石忠彦「「ありがとう」が出てこない」(『長野県民俗の会通信』221)
  5. 櫻井弘人「新型インフルエンザの伝承と民俗」(『伊那民俗』84)

人の一生

  1. 安藤有希「妊娠祈願の方法-魂生神社を事例として-」(『長野県民俗の会会報』32)
  2. 岩田重則「死と葬送の現在と未来-「未完成の霊魂」と大量死-」(『伊那民俗研究』19)
  3. 福澤昭司「土葬と火葬と」(『長野県民俗の会通信』226)

年中行事

  1. 松本市教育委員会『「松本のコトヨウカ行事」調査報告書』
  2. 木下守「定期市の復活」(『長野県民俗の会通信』221)
  3. 草間美登「安曇野風土記 歳時習俗 暦攷-信州安曇野の年中行事 四季折々の歳時習俗と民間暦について-」(『信濃』63-5)
  4. 竹渕修二「上伊那に伝えられている鳥追いの行事に伴う歌について(前篇)」(『伊那路』657)
  5. 「地域文化」編集室「戸沢のねじ行事」(『地域文化』96)
  6. 中山源一「小正月の風習「諸神講」」(『伊那路』657)
  7. 松上清志「飯田の祇園祭その2-今では「津島様」と呼ばれている-」(『伊那民俗』86)

民俗芸能

  1. 安曇野市教育委員会『安曇野市の文化財第1集 安曇野市文化財調査報告書 安曇野市の無形民俗文化財』
  2. 上柳優二郎「土搗石と笠原の土搗唄「どうづきサンヨ」」(『伊那路』657)
  3. 木下守「ぼんぼんのこと-ささら踊りにもふれながら」(『長野県民俗の会会報』32)
  4. 坂本要「三信遠大念仏の構成と所作-三河地区を中心に-」(『民俗芸能研究』50)
  5. 「地域文化」編集室「狐の嫁入り行列」(『地域文化』96)

口頭伝承

  1. 石川俊介「聞きづらい「話」と調査者-諏訪大社御柱祭りにおける死傷者の「話」を事例として-」(『日本民俗学』268)
  2. 伊藤友久「アウトロー伝説と花街権堂」(『長野県民俗の会通信』224)
  3. 小原稔「松本市蟻ケ崎の「泉小太郎の枝垂桜」について」(『長野県民俗の会通信』225)
  4. 木下守「『諏訪大明神絵詞』と田村麻呂伝説」(『長野県民俗の会通信』224)
  5. 中村慎吾「デマから都市伝説の発生過程を考える-『消えるヒッチハイカー』を参考に」(『長野県民俗の会通信』223)
  6. 巻山圭一「伝説のなかの佐々木高綱」(『長野県民俗の会通信』222)
  7. 吉田保晴「伊那谷の冬鳥-民俗の窓を通して(9)-」(『伊那路』648)

方 言

  1. 井上伸児「消えていくことばの文化(その18)「父祖たちの知恵」(『伊那』706)
  2. 神村透「売木の方言-五十年前の記録」(『伊那』992)
  3. 吉田保晴「伊那谷のカワガラス-民俗の窓を通して(10)-」(『伊那路』649)
  4. 吉田保晴「伊那谷のクマタカ・オオタカ-民俗の窓を通して(11)-」(『伊那路』652)
  5. 吉田保晴「伊那谷のカッコウ-民俗の窓を通して(12)-」(『伊那路』653)
  6. 吉田保晴「伊那谷のシギ類-民俗の窓を通して(13)-」(『伊那路』657)

民俗誌

  1. 高橋寛治「飯田・上飯田の民俗調査報告1 地域産業と独自の歩み」(『伊那民俗』84)
  2. 野本寛一「峠越えの時空-青崩峠を緒として-」(『伊那民俗研究』19)

書評

  1. 今井啓「野本寛一編著『食の民俗事典』」(『伊那民俗』86)
  2. 片桐みどり『地霊の復権-自然と結ぶ民俗をさぐる-』を読む(『伊那民俗』84)
  3. 巻山圭一「三田村佳子氏『風流としてのオフネ-信濃の里を揺られてゆく神々-』柳田賞受賞によせて」(『長野県民俗の会通信』226)