『遥北通信』133号(H5.7.1)

松本市入山辺のこと八日行事

三石 稔

1. はじめに

 長野県内の特徴ある民間信仰として道祖神信仰が知られている。道祖神信仰といっても、その多様性は地域によってさまざまであり、一口に長野県の道祖神信仰といってもその概要を簡単に述べるには難しいものがある。その多様性の中でも、全国的な観点からみたとき、この地域だけに見られる特色のあるものがいくつかある。その一つに、2月8日のコト八日に行われる、ワラウマヒキの行事にかかわる習俗がある。わらで馬を作り、その馬に餅の入った藁苟(わらづと)を背負わせて、道祖神にお参りして餅を交換する行事である。この行事にはムラムラを訪れる厄神とその厄神に対抗してムラを守る道祖神の説話が付随している。このコト八日のワラウマヒキは、長野県の東信(長野県内は北・東・南・中と四つのブロック分けが行政によって行われており、東信は上田市を中心とした東のブロックで、小県・佐久地方をいう)地方から諏訪地方にかけた一帯を中心に行われているものであり、県外でもこの地域に隣接した群馬県や山梨県の県境付近にみられる程度である[註1]。このワラウマヒキ行事の行われる周辺にも類似した行事が行われており、ここでは東信や諏訪地方の西側に位置する松本 市入山辺のコト八日行事を紹介する。

2. 入山辺のコト八日行事

厩所の道祖神
(前面に餅がつけられている)
 入山辺は松本市の東山部にあたり、松本市の中でも独特の民俗傾向をもつ村のようである。比較的平坦部が多く、水田作物の単位収量が多い松本市内において、沢入りの山間部は単位収量が少なく、水田作物に生業を求めるだけでは生活がなりたたなかった地域である。したがって傾斜地を使った果樹栽培に早くから力を入れたり、炭焼きに従事した人々が非常に多かったわけである。入山辺から山を越すと東信の小県郡和田村や武石村である。和田村については、『遥北』第75号で紹介した「道祖神の獅子舞」において少し触れているように、正月に道祖神の獅子舞を行う地域である。この獅子舞を行う地域とコト八日にワラウマヒキを行う地域は、比較的一致している。

 入山辺廐所ではコト八日の朝、木戸先でモミガラやトーガラシ、抜けた髪の毛などを焚く。そして餅をつき道祖神に供えるが、このとき道祖神の神像に餅を塗りつける。誰よりも早くお参りすることで、良縁を得るということがいわれる。道祖神を大国主命といい、早くお参りすれば早く帳面につけてくれるので、良縁が授かるともいう。かつてはワラウマを作り、藁苟に餅を入れて背負わせて道祖神まで引いていって塗りつけたという。この餅を塗りつけるという習俗は、少し南に離れるが上伊那郡辰野町伊那富の唐木沢あたりでも行われており、そこでは藁苟に餅を入れて持っていき、道祖神にちぎって付けている。「めっつりはなっつりのお方(妻君)をよぶように」と塗る時にいうようで、器量の良い嫁を世話をしてくれるように、という意味だという[註2]。 廐所の場合、ワラウマを引いていくのは子どもたちということである。

ビンボウガミを囲んで念仏を唱える

 午後になると、公民館に大人がわらを持ちより、ワラウマを作る。朝方に道祖神をお参りしたときのワラウマと違って大きなものである。かつてはすべてをわらで作ったようであるが、そのうちに山から木を切ってきて足だけは木を使うようになった。現在は木の枠を作り、そこに藁を束ねて縛っていくというもので、芯は木の枠で作られている。またワラウマにはビンボーガミといわれるジジ、ババ二体の男女の人形が乗せられる。このビンボーガミもわらで作られるが、できあがった神像を見るかぎりとくに男女の区別はないようである。また二体が夫婦であるということもいわないようである。

 かつては子どもがやった行事で、学校から帰ってから集まってからワラウマを作ったという。馬の背中にはわらじを片方に、もう片方に草履をかける。わらじは男の履くもので、草履は女の履くものだといわれている。現在は老人クラブによってこの行事が伝えられている。

 ビンボーガミがワラウマに乗せられ用意ができると、ワラウマを中心に据えて、念仏が唱えられる。長い数珠が出され輪に広げられると、そこに村人が座り鉦をたたきながら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える。鉦をたたく木槌には「文久二年(1862)」の銘がある。念仏が終わると「ビンボーガミ追いだせ、ビンボーガミ追いだせ」とはやしながら薄(すすき)川の端までワラウマを担いで行く。手綱を子どもたちが引き、大人4人で担ぐもので、鉦をたたきながら急な坂道を下って行く。

ビンボウガミを川へ送る
 川端に着くとワラウマをおろし、再びワラウマを囲んで数珠をまわし念仏を唱える。そして、河原にワラウマを移すと火をつけて焼いてしまう。かつては川端まで行く途中に馬の背中にかけたわらじや草履を桑に引っかけておいたりしたが、今はワラウマと一緒に焼いている。焼いてしまうと後ろを振り向かずに帰るものといい、振り向くと厄がついてくるといった。

 入山辺では同じような行事が各集落で行われている。上手町(わでまち)では、トーヤと呼ばれる家が宿となり、そこでワラウマが作られジジ、ババの人形が乗せられる。できあがるとトーヤで念仏を唱え、その後「ビンボーガミまくり出せ、風邪の神まくり出せ」とはやしながら村中を引き回し、村境の田んぼで焼き払うという[註3]。奈良尾でもワラウマと人形が作られ、「ビンボーガミ飛んでけ、風邪の神飛んでけ」とはやし、念仏を唱えて村中を引き回し、村境の田んぼで焼き払う。粕汁を作り、ワラウマに供えたり焼き払った後、粕汁を食べるといったところから「カスネンブツ」とも呼ばれている。

 入山辺三反田(さんたんだ)で山本まさみさんに聞いた話では、ここでもかつてワラウマを作ったという。ここでは青年団が行うもので、ワラウマを作り2月7日の日から公民館で夜明かしをし、夜明けにワラウマを大手橋の所に捨てたという。大手橋は村境にあたる。この日をオヨーカと呼んでいる。

 この他入山辺ではワラウマのかわりにわらでムカデを作るところがある。中村では8日朝、木戸先でモミガラなどを焚き、夕方になると公民館でオイダシというムカデを作っている。完成するとムカデに6年生が乗り、それを他の小学生と大人が「ナンマイダンボ、ナンマイダンボ」と念仏を唱えながら引っ張る。村境まで行くと、六地蔵にムカデをグルグル巻きつけるが、このあと後ろを振り向くと払った厄がついてくるという。カスネンブツと呼んでいる。舟付でもムカデを作っており、ここではワラジは厄病神が履くものだといっている[註4]。

 ワラウマがムカデに変化している点などはどういうことかわからないが、松本市内にはアシナカとかわらじを作り、村境につるすところが平坦部に行くとあるところから、ワラウマとわらじなどの境界にムカデが登場しているともいえる。本来馬に乗せて送る、というかたちであったものが変化しているのではないだろうか。コト八日に限らず神送りを行う行事や信仰がある。その中には馬に乗せて送るというかたちが多い。例えばコトノカミオクリで知られる南信の飯田下伊那地方では、笹竹に馬の字を家族の数書いた短冊をつるし、「風の神様どうかこの竹にのり移ってください」といって家の中を払っている。やはり馬にのり移らせて送るといった意味があるようである。また山形県上山市では、豊田村岡の久左衛門の先祖が、朝早く草刈りに行ったとき、馬に疫病神を乗せて、村はずれまでこれを送ってやった、という伝承があり[註5]、盆の仏送りに馬を使うように神や祖霊が乗る馬という意識は強かったようである。

3. 二月八日の周辺

 以上松本市の中でも、入山辺のコト八日行事を紹介してきたが、松本市内には2月8日に道祖神祭りを行うところもある。そしてそういったところでもワラウマヒキを行っているところがある。塩尻市境の内田では、オヨーカといって入山辺廐所と同様の祭りを行っており、また、平坦部にある笹賀今村でもドーソジンマツリといってワラウマヒキを行っている[註6]。

 本来厄神を送る日は一年にいくつかあったものと思われる。コト八日の行事をカスネンブツと呼ぶ地域が入山辺にもいくつかみられるように、この地域には貞享騒動における伝承が残されている。それは、貞享3年(1686)に起きた加助一揆にまつわるもので、入山辺宮原では2月8日に行うカスネンブツについて、加助の命日の供養をするためのものであるという。そしてカスケネンブツがカスネンブツに転化したものであろうともいわれている[註7]。また、里山辺村大嵩崎で全戸から女性が参加して、毎月14日にトーヤに集まって念仏を唱えたのは、一揆に山辺村から一人も犠牲者が出なかったので、他の犠牲者の冥福を祈るために始まったという伝承がある。これらの 伝承とコト八日とは直接つながりがない。しかし、かつては一年に何度かコトの日があったという指摘[註8]もあり、次第に2月8日のコトに集約されてきたといったことも考えられるわけである。こういった現在まで伝承される神送りには、かつて疫病が流行ったために始まったという場合が多い。病を送る神送りはさまざまなものがあった。とくに風邪の神を送るものは知られており、上伊那郡高遠町勝間では、家の者が風邪をひくと桃の枝へ馬と書いた紙と洗米を結びつけ、家じゅうの人の体をはらってつじへさし、後ろを見ずに家に帰った[註9]という。また疱瘡送りなどもよく行われたものであり、これらは個人個人で臨時に行われた神送りであった。しかし神送りは村継ぎに送られるにしたがい、集団化し、また定期化したとも考えられる[註10]。こうして現在まで集団化し、定期化した神送りが残存したともいえる。加助一揆の犠牲者の冥福を祈るために始まったといわれるカスネンブツも、毎月行われたという点から考えると、毎月あったコトの日が2月だけ残されたと考えることもできる。いずれにしてもその日が道祖神祭りの日になっていることに注目しなければならない。

 この道祖神と二月八日についての伝承には、この地域に次のようなものが残されている。

 毎年10月は神無月で神様が出雲に行くが、厄病神は他の神様より遅れて12月8日に出発する。その時、『のろいのメモ帳』なるものを道祖神に預け、『来年の二月八日に帰ってくる。この帳面はそれまで大切に保管しておいてくれ。決して開いて見てはいけない。』と念を押して出かけて行く。道祖神が預かったメモ帳を開いてみると、太郎の家には厄病、次郎の家には泥棒、三郎の家には火事などと、よくない計画が書いてあり、村人の幸福を願う道祖神にとって、そんな予定の書いてあるメモ帳は、厄病神に渡せないので、1月14日の夜、三九郎の火の中へ投げて焼いてしまう。翌年、2月8日になると、厄病神が出雲から帰ってくる日なので、村人達は厄病神に入り込まれないように木戸口でサイカチの実やコショウなど刺激物を焚く。臭い煙りのなか厄病神は道祖神のところへきてメモ帳の返還を要求するが、道祖神は『去る一月十四日の夜、火事にあってメモ帳を焼いてしまった。』と言い訳をしたうえで新しいメモ帳を渡した。その帳面には厄病にかからない方法などが書かれており、それを見た厄病神は『こんなものは要らない』と言ってみたがし方がない。道祖神の前には村人が供えた餅が藁づ とに入れてたくさんあり、『厄病神君、怒らずにこの餅を食べたまえ。火事見舞にもらったものだ。』と道祖神は言うが厄病神は小言を言いながらどこかえ行ってしまった[註11]。

 以上が、この地域にある伝承であり、松本市や塩尻市あたりから諏訪地方に共通する伝承のようであり、長野県内では他の地域でもこういった伝承が残っている。ただし必ずしも2月8日に行事が行われているところばかりではない。こういった伝承をふまえコト八日について引き続き考えていきたい。

註.
1.長野県史刊行会『長野県史民俗編』総説U 1992年 P-557
2.竹入弘元「辰野町伊那富の道祖神(一)」上伊那郷土研究会『伊那路』第16巻12号所収 P-28
3.窪田雅之「コト八日行事点描」『塩尻市立平出遺跡考古博物館歴史民俗資料館紀要第九集』 P-17
4.前掲註3.と同じ
5.大島建彦『疫神とその周辺』岩崎美術社 1985年 P-58
6.前掲註3.と同じ、同論文には松本市を中心とした地域のコト八日行事について、多くの事例が報告されている。
7.竹内利美『農村信仰誌』庚申念仏篇 慶友社 1975年(復刊)
8.小野重朗「コトとその周圏」大島建彦編『コト八日』所収 岩崎美術社 1989年 P−216
9.長野県史刊行会『長野県史民俗編』第二巻南信地方(二) 昭和63年 P-847
10.三石稔「コトの神の周辺」信濃史学会『信濃』第45巻第1号所収 1993年 P-45
11.前掲註3.と同じ、P-23 片丘村誌刊行会『片丘村誌』1985年に詳しいという。